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Commentary

追悼・李克強――なぜ習近平の後塵を拝したのか
衆目一致の超エリートが「最も存在感の薄い総理」に甘んじた

李昊
東京大学大学院法学政治学研究科准教授、日本国際問題研究所研究員
政治
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2012年11月15日、中国共産党の第18期中央委員会第1回総会を終え、記者会見場で手を振る総書記に選出された習近平氏(左)と新政治局常務委員の李克強氏。李氏は習氏の後塵を拝し、最高指導者になれなかった(写真:共同通信IMAGE LINK)

 2023年夏、国務院総理の重責から解放され、老幹部となった李克強は敦煌を訪れていた。居合わせた群衆ににこやかに手を振り、軽快に階段を上る溌剌(はつらつ)とした姿が市民によってSNSにアップロードされ、話題を呼んだ(注1)。しかし、その2カ月後の10月27日、上海で突然の心臓病に倒れ、68歳という若さで死去した。死後8時間という早いタイミングで第一報が新華社より発せられたが、わずか2行だった(注2)。しかも通常指導者死去の際に公表される「訃告」は「後で発せられる」と記され、結局公表は夕方となった(注3)。当局にとっても想定外で、準備がまったくなかったことがうかがわれる。

 李克強の死去をめぐっては、その若さに加え、習近平総書記とのギクシャクした関係もあって、陰謀論がくすぶり続けている。また、人気のある指導者の死に対する追悼活動は、往々にして大規模な抗議活動に発展する。1976年、周恩来を追悼する活動が四五天安門事件として知られる大規模な「四人組」批判へと発展した。1989年、胡耀邦を追悼する活動がかの有名な六四天安門事件へと発展した。そうした経緯もあって、当局は合法的な追悼を許容しながらも、抗議活動へと発展しないよう神経を尖らせた。安徽(あんき)省合肥市にある李克強の旧居前では追悼者の人波が途絶えず、花で埋め尽くされたが、大量の人員が交通整備に投入され、秩序の維持が図られた(注4)。

 李克強はどのような人物だったのか。なぜ最高指導者の総書記になれず、存在感を失っていったのだろうか。本稿では政治家・李克強を振り返り、李克強総理を追悼したい。

中国政治における新世代のスーパースター

 李克強の経歴はまさしく中国政治における新世代のスーパースターであった。1977年末、文化大革命の間停止されていた大学入試が復活すると、安徽省鳳陽に下放されていた李克強はそれを受験し、「77級」の1人として1978年3月に北京大学法律系に入学した(注5)。大学では学生会の責任者をも務めた(注6)。まさしく秀才である。大学での成績も優秀で、海外留学を模索したようだが、大学の幹部に気に入られ、大学に残ることとなったという(注7)。以後、李克強は政治の道を歩むこととなる。

 しかし、研究を放棄したわけではなかった。李克強は北京大学で経済学の修士と博士を取得している。今日、中国の多くの幹部が在職のまま博士学位を取得している。このいわば社会人博士の質の評価をめぐっては広く疑念が持たれているが、李克強の博士学位は「本物」であると一般的に評価されている。指導教員の厲以寧は国内のトップクラスの経済学者を博士論文審査委員に選び、李克強に「彼らは論文本来の内容を見る」、「このようにすることで、あなたの論文が本当の評価を得られる」と話したという(注8)。結果、李克強の博士論文「我が国経済の三元構造を論ずる」は、国内の経済学界の最高栄誉とされる孫治方経済科学賞の論文賞を獲得した。

 1980年代以降、鄧小平と陳雲のイニシアティブの下で、幹部終身制が改められ、定年制の導入が徐々に進められた。定年制の導入とはすなわち定期的な権力交代の実施であり、1980年代にはそれを見据えた若手幹部の体系的な育成と抜擢(ばってき)が進められた。李克強もそうした将来の幹部候補として期待され、徐々に頭角を表していった。1985年に時の胡耀邦総書記肝入りで大規模な青年代表団が訪日したことは広く知られるが、この時の団長が胡錦濤、副団長が李克強だった。日本側では「あの2人が未来の中国共産党のリーダーになるらしい」と噂されたという(注9)。

 1997年の第15回党大会、李克強は弱冠42歳にして共産主義青年団の第一書記の任にあって中央委員に選出された(注10)。共産主義青年団の先輩で親しい胡錦濤は1992年から政治局常務委員を務めており、2002年に最高指導者となることが確実視されていた。関係が深く、側近として知られる李克強のキャリア展望はいっそう開けたものとなった。将来の大任に備えて、李克強は共産主義青年団を離れ、河南省と遼寧省での地方経験を積んだ。21世紀に入ると、李克強は習近平と共に胡錦濤ら第4世代に続く第5世代指導者の有力候補として言及されるようになった(注11)。2007年の第17回党大会開催時においても、李克強が後継者の最有力候補と報じられ(注12)、むしろ習近平が「李(克強)氏に次ぐ注目株」だった(注13)。

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