Commentary
追悼・李克強――なぜ習近平の後塵を拝したのか
衆目一致の超エリートが「最も存在感の薄い総理」に甘んじた
2023年夏、国務院総理の重責から解放され、老幹部となった李克強は敦煌を訪れていた。居合わせた群衆ににこやかに手を振り、軽快に階段を上る溌剌(はつらつ)とした姿が市民によってSNSにアップロードされ、話題を呼んだ(注1)。しかし、その2カ月後の10月27日、上海で突然の心臓病に倒れ、68歳という若さで死去した。死後8時間という早いタイミングで第一報が新華社より発せられたが、わずか2行だった(注2)。しかも通常指導者死去の際に公表される「訃告」は「後で発せられる」と記され、結局公表は夕方となった(注3)。当局にとっても想定外で、準備がまったくなかったことがうかがわれる。
李克強の死去をめぐっては、その若さに加え、習近平総書記とのギクシャクした関係もあって、陰謀論がくすぶり続けている。また、人気のある指導者の死に対する追悼活動は、往々にして大規模な抗議活動に発展する。1976年、周恩来を追悼する活動が四五天安門事件として知られる大規模な「四人組」批判へと発展した。1989年、胡耀邦を追悼する活動がかの有名な六四天安門事件へと発展した。そうした経緯もあって、当局は合法的な追悼を許容しながらも、抗議活動へと発展しないよう神経を尖らせた。安徽(あんき)省合肥市にある李克強の旧居前では追悼者の人波が途絶えず、花で埋め尽くされたが、大量の人員が交通整備に投入され、秩序の維持が図られた(注4)。
李克強はどのような人物だったのか。なぜ最高指導者の総書記になれず、存在感を失っていったのだろうか。本稿では政治家・李克強を振り返り、李克強総理を追悼したい。
中国政治における新世代のスーパースター
李克強の経歴はまさしく中国政治における新世代のスーパースターであった。1977年末、文化大革命の間停止されていた大学入試が復活すると、安徽省鳳陽に下放されていた李克強はそれを受験し、「77級」の1人として1978年3月に北京大学法律系に入学した(注5)。大学では学生会の責任者をも務めた(注6)。まさしく秀才である。大学での成績も優秀で、海外留学を模索したようだが、大学の幹部に気に入られ、大学に残ることとなったという(注7)。以後、李克強は政治の道を歩むこととなる。
しかし、研究を放棄したわけではなかった。李克強は北京大学で経済学の修士と博士を取得している。今日、中国の多くの幹部が在職のまま博士学位を取得している。このいわば社会人博士の質の評価をめぐっては広く疑念が持たれているが、李克強の博士学位は「本物」であると一般的に評価されている。指導教員の厲以寧は国内のトップクラスの経済学者を博士論文審査委員に選び、李克強に「彼らは論文本来の内容を見る」、「このようにすることで、あなたの論文が本当の評価を得られる」と話したという(注8)。結果、李克強の博士論文「我が国経済の三元構造を論ずる」は、国内の経済学界の最高栄誉とされる孫治方経済科学賞の論文賞を獲得した。
1980年代以降、鄧小平と陳雲のイニシアティブの下で、幹部終身制が改められ、定年制の導入が徐々に進められた。定年制の導入とはすなわち定期的な権力交代の実施であり、1980年代にはそれを見据えた若手幹部の体系的な育成と抜擢(ばってき)が進められた。李克強もそうした将来の幹部候補として期待され、徐々に頭角を表していった。1985年に時の胡耀邦総書記肝入りで大規模な青年代表団が訪日したことは広く知られるが、この時の団長が胡錦濤、副団長が李克強だった。日本側では「あの2人が未来の中国共産党のリーダーになるらしい」と噂されたという(注9)。
1997年の第15回党大会、李克強は弱冠42歳にして共産主義青年団の第一書記の任にあって中央委員に選出された(注10)。共産主義青年団の先輩で親しい胡錦濤は1992年から政治局常務委員を務めており、2002年に最高指導者となることが確実視されていた。関係が深く、側近として知られる李克強のキャリア展望はいっそう開けたものとなった。将来の大任に備えて、李克強は共産主義青年団を離れ、河南省と遼寧省での地方経験を積んだ。21世紀に入ると、李克強は習近平と共に胡錦濤ら第4世代に続く第5世代指導者の有力候補として言及されるようになった(注11)。2007年の第17回党大会開催時においても、李克強が後継者の最有力候補と報じられ(注12)、むしろ習近平が「李(克強)氏に次ぐ注目株」だった(注13)。
2007年10月22日、胡錦濤総書記が8人の同僚たちを引き連れて、人民大会堂の記者会見場に現れた。午前に開かれた中国共産党第17期中央委員会第1回全体会議で新たな政治局常務委員会のメンバーが選出され、中国の最高指導部が世界中のメディアにお披露目された。
注目は中央委員から政治局委員を飛ばして、最高指導部に抜擢された習近平と李克強の2人の若手だった。しかし、2人にとっての晴れ舞台は同時に李克強にとって、胡錦濤の後継者をめぐる権力闘争の敗北が世界中に明かされた場でもあった。習近平が序列6位、李克強が序列7位となり、それぞれ中央書記処書記、国務院副総理の役職を担うこととなった(厳密には国務院副総理への就任は2008年3月)。5年後の2012年には、習近平総書記と李克強総理が誕生することが確実になった。スーパースター李克強は最高指導者になれなかった。なぜ李克強は習近平の後塵を拝したのだろうか。
派閥色、世渡り下手、「赤い貴族」の壁
第1に、李克強は派閥の色が強くつきすぎていた。江沢民と胡錦濤と、中国共産党では2代続けて派閥中立的な人物が総書記に選出されていた。誰からも受け入れられる人選というのが最高指導者の条件であった。その点、李克強は胡錦濤に近すぎて、胡錦濤に批判的な勢力には受け入れられなかった。江沢民はそうした勢力を糾合して、比較的に中立的な習近平を担ぐことに成功した。
第2に、李克強は「世渡り下手」だった。「胡錦濤が長老たちとの関係を大切にしない李克強にいらだち、挨拶をしておくように叱りつけた」と報じられる(注14)。一方のライバルの習近平は、「部下や企業家とのつきあいは薄いのに、老幹部のところには好んで足を運んでいたようだ」と言われるように(注15)、党内の人脈を大事にしていたという。老幹部たちにとって、習近平は堅実で仕事ができるが、温和で人懐っこく、「誰とでも妥協できる」(注16)人物と思われたのだ。
第3に、李克強は普通の家庭の出身であった。一方、習近平は革命の元勲を父に持つ「紅二代」であった。1990年代をつうじて、紅二代はグループとして勢力が振るわず、人気もなく、中央委員にもほとんど選出されなかった。しかし、2000年代に入ると、紅二代が再び台頭し始め、時の総書記江沢民も習近平が紅二代であることを「党への忠誠心が高い」と評価したという(注17)。2007年、習近平が李克強より上位で政治局常務委員会に入ったのは、江沢民の側近である曽慶紅の推薦があったと広く信じられているが(注18)、曽慶紅も紅二代である。李克強は勉学に励むことで立身出世を実現するチャイニーズ・ドリームの象徴である。しかし、最後の一歩は「赤い貴族」に阻まれることとなった。
2007年の李克強の運命を分けた人事決定の最大の要因となったのは、「民主推薦」だった。詳細な制度設計や結果は公表されていないが、若干の説明は新華社から公表されており(注19)、事実上の人気投票だったようである。海外の報道や分析を総合すると、ここで習近平が李克強よりも多く票を集め、2007年の指導部人事はこの民主推薦の投票結果が反映されたと言われる(注20)。端的に言って、2007年時点において、李克強よりも習近平のほうが人気の面で党内でより広く受け入れられていたのである。
最高指導者への道は断たれたものの、李克強はナンバー2たる総理として、国家運営の重責を担うこととなった。制度化が進められ、集団指導体制が定着しつつあり、党内民主の空気感が中国共産党を包む中、2012年から10年にわたって習と李が団結して中国の政治運営を担うことが期待された。
しかし、周知のとおり、物事は想定どおりには進まなかった。習近平の個人支配化が急速に進められ、さまざまな制度や慣習が打ち破られていった。そのかたわら、李総理の存在感は薄れていった。李克強の冷遇は広く知られており、ここではいくつか象徴的なエピソードを振り返ることとする。
忘れ去られた「リコノミクス」、軽視された活動報道
まず、早々に忘れ去られた「リコノミクス(李克強経済学)」である。バークレイズ・キャピタルが使い始め、李克強の経済政策の代名詞として2013年には広く注目された。端的に言えば、財政出動に頼る政府主導の経済から、民間企業や個人消費の重視する市場主導の経済への転換を目指す政策である(注21)。既得権益が強いこともあって、当初から実現可能性が疑問視されていた面もあったが、内外で一定の期待もあった。しかし、2013年の三中全会以後、経済政策における李克強の存在感は急速に低減していった。三中全会で採択された「改革の全面的深化における若干の重大な問題に関する中共中央の決定」にリコノミクスの考え方が一定程度盛り込まれたものの、国有企業の主体的な地位が改めて確認されたほか、改革案の具体性に乏しく、期待はずれとの声も小さくなかった。
しかも「決定」の説明を習近平総書記自らが行い、加えて中央全面改革深化領導小組が新たに設置され、習近平が経済政策においても明らかに影響を強めていった。早くも2014年3月には『日本経済新聞』で「リコノミクスは失速し、死語にすらなりつつある」と報じられた(注22)。『朝日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』に至っては、その後2016年、2017年まで紙面で言及されることもなくなった。本来、経済運営は国務院総理の仕事であるはずだが、習近平政権においては、劉鶴(中央財経領導小組弁公室主任、副総理を歴任)という経済ブレーンの助けを得ながら習近平自身が主導していたといわれる。
活動報道にも大きな変化が現れた。李克強は災害があると、真っ先に現地入りするなど活発に活動した。2020年夏の洪水災害の際には、重慶を訪れ、長靴を履いて泥水に入って市民と交流した。視察の様子は8月20日に政府のウェブページに掲載されたが、新華社、『人民日報』、CCTVなどは遅々として報道せず、8月23日の夜になって、やっと報道された(注23)。同時期、習近平は安徽省を視察していたが、それは詳細に報道されていた。習近平政権に入ってから、とくに第2期政権期以降、報道面で総書記である習近平への偏重があからさまになっていった。それは活動の内容の重要性に関係なく、手紙を送った、会談があった、会議に出席したといった些細なものでも必ず習近平の活動報道に時間と紙面を割き、総理である李克強は軽視された。李克強の存在感の低下は、決して活動量の不足や怠慢ではなく、こうしたメディア統制によって意図的に誘導されたものだった。
習近平と李克強は対立しているという見方も頻繁に言及される。もちろん、思想面や政策面での差異は明らかに大きい。しかし、習近平の権力確立が急速に進んだこともあって、李克強は習近平と正面から対立することはせず、従ったというのが大方の専門家の見方だ。かつてスーパースターだった李克強はナンバー2の地位を甘んじて受け入れた。その結果、李克強は中華人民共和国史上、最も存在感の薄い総理となってしまった。
そんな存在感の薄い李克強総理も、時折若干含みのある発言をし、観察者の想像力をたくましくさせた。習近平が貧困撲滅の達成に躍起になっている中、2020年5月の全国人民代表大会における記者会見で、李克強は「6億人は月収が1000元程度しかない」と話し、波紋を呼んだ(注24)。衝撃的な発言に対して国家統計局や専門家が釈明に追われた(注25)。2022年3月、全国人民代表大会において総理として臨む最後の記者会見では、「長江と黄河は逆流しない」と改革・開放を続けていく決意を示したが(注26)、これも習近平の方針に対する不満ではないかと憶測を呼んだ。
同年8月にも李克強は改革・開放の象徴である深圳を視察し、「長江と黄河は逆流しない」と繰り返した(注27)。同じ日、習近平は遼寧省錦州市にある遼瀋戦役記念館を視察し、革命の歴史を振り返っていた。両者の違いが際立ち、憶測を呼んだ。
2023年3月には、李克強が総理を退任する際、国務院のスタッフを前に、「人がやることを天は見ている(人在幹、天在看、蒼天有眼)」と思いをにじませたような挨拶がまた話題になった。観察者はこうした李克強の発言に一喜一憂していた。これらの発言にどの程度政治的な意図が込められていたかは確かめる術(すべ)もないが、これらの発言は李克強が常識的で開明的な考え方を持つ政治指導者であったことを示している。
こうした実務派のイメージの証左となるエピソードはほかにも少なくない。有名なのは「李克強指数」である。遼寧省党委員会書記を務めていた時期、李克強は省のGDP統計を信用せず、省内の鉄道貨物輸送量、銀行融資残高、電力消費の推移を重視しているという旨をアメリカの駐中国大使に話したという(注28)。これが李克強指数と呼ばれた。実際に李克強指数が経済状況を表す指標として適切であるかは評価が分かれるが、李克強が実態、真実を知ろうと努めていたことは間違いないだろう。
2020年、新型コロナへの対応においても李克強と習近平の考え方は大きく異なっていたようだ。李克強は「正確な数字、真実を報告しろ」と指示し、習近平は「感動的なストーリーを積極的に報じよ」と命じたという(注29)。新型コロナが感染拡大する中、習近平総書記は同年1月17日から18日までミャンマーを訪問し、その後21日まで雲南省に滞在していた。1月20日、武漢での調査から北京に戻った専門家が「ヒトからヒトへの感染が起きている」と報告した相手は李克強総理だった(注30)。同日、ヒトヒト感染の事実が公表され、雲南にいる習近平からも「人民の生命の安全と健康を最優先に感染を断固抑え込め」と指示が出され、大規模なロックダウンへとつながった。ヒトヒト感染の事実の公表は李克強の指示だったと思われる。
「実事求是」(事実に基づいて真理を求めること)は中国共産党人の最も重要な行動規範の1つである。今日の中国共産党中央委員会の機関誌のタイトルも『求是』である。李克強はこのような精神の体現者だったと言えよう。そして、実事求是を大切にするという姿勢は中国に限らず、政治家として不可欠の素養であることは言うまでもない。
頂点を極めていたら民主化に導くことができたか
李克強は広く改革派のイメージが持たれている。確かに李克強は市場経済を重視する経済政策を目指し、改革を志向していたことは否定しえない。しかし、共産主義青年団の先輩でもある胡錦濤がリーダーシップを発揮することなく10年の任期を終えてしまったように、既得権益の強固な中国において、改革を進めることは困難である。端的に言って李克強は総理として改革を推し進めることに失敗したし、仮に最高指導者になっていたとしても改革の推進は極めて難しい仕事だっただろう。
また、李克強が中国を民主化に導くというナイーブな期待も一時期聞かれた。確かに李克強は英語も堪能で国際感覚を有した政治家だった。しかし、李克強は海外に長期留学をしたことがなく、民主主義体制の下で暮らしたこともなく、民主主義に深い理解があるとは思えない。大学卒業後、一貫して体制内エスタブリッシュメントとして歩んできた。先輩である胡錦濤と同様に、正真正銘の共産党人である。李克強が中国共産党の李登輝やゴルバチョフになることはなかっただろう。
その意味で、李克強に過度な幻想を抱くべきではないだろう。しかし、李克強が中国をより穏健で開かれた国に導こうとしていたことは想像に難くない。それは中国人民と世界の人々にとって、そして中国共産党自身にとっても望ましいことだっただろう。李克強は間違いなく優れた政治指導者だった。外国の企業経営者や政治家がこぞって「李克強詣で」をしていた時期の中国の将来に対する楽観的な期待は今となっては霧散した。かつてのスーパースター李克強は、その早すぎる死によって悲劇の主人公となった。
(注1)金順姫「2カ月前、敦煌に現れていた李克強氏 動画で笑顔、「顔色良かった」」朝日新聞デジタル、2023年10月27日(https://digital.asahi.com/articles/ASRBW4SRJRBWUHBI02F.html)。
(注2)「李克強同志逝世」新華網、2023年10月27日(http://www.news.cn/politics/2023-10/27/c_1129942174.htm)。
(注3)「中共中央 全国人大常委会 国務院 全国政協訃告 李克強同志逝世」新華網、2023年10月27日(http://www.news.cn/politics/2023-10/27/c_1129943498.htm)。
(注4)金順姫「李克強氏の旧居に追悼の人波、あふれる花束 当局は世論の動向警戒」朝日新聞デジタル、2023年10月30日(https://digital.asahi.com/articles/ASRBZ5VJGRBZUHBI00V.html)。
(注5)なお、習近平総書記は1975年に清華大学に入学しているが、この時期大学入試は実施されておらず、習近平は「工農兵学員」として推薦された。
(注6)「李克強同志生平」『人民日報』2023年11月3日。
(注7)朝日新聞中国総局『紅の党 完全版』朝日新聞出版、2013年、183-184頁。
(注8)「李克強与妻女常用英語交流 其博士論文経得起考験」中国新聞網、2013年3月16日(https://www.chinanews.com.cn/gn/2013/03-16/4649086.shtml)。
(注9)井上亮「その日、新橋の中華料理店がざわついた 去る李克強氏、日本にも足跡」朝日新聞デジタル、2022年10月22日(https://digital.asahi.com/articles/ASQBQ3Q7SQBPUHBI03B.html)。
(注10)同じ時、後に総書記となる習近平は、最下位の中央候補委員(151人中第151位)であった。
(注11)宗海仁『第四代』Carle Place, NY, 明鏡出版社、2002年、421-463頁。Andrew J. Nathan and Bruce Gilley, China’s New Rulers: The Secret Files, New York: New York Review Books, 2002, pp. 120-127.
(注12)例えば、「真の「胡体制」幕開け」『読売新聞』2007年10月12日。
(注13)坂尻信義、峯村健司「ポスト胡 公開審査」『朝日新聞』2007年10月17日。
(注14)朝日新聞中国総局『紅の党 完全版』195頁、比嘉清太「党エリート 冷遇の最後 李克強氏死去 世渡り下手 習氏と逆転」『読売新聞』2023年10月28日。
(注15)朝日新聞中国総局『紅の党 完全版』195頁。
(注16)Grace Tsoi and Sylvia Chang “How Xi Jinping made himself unchallengeable,” BBC, 17 October 2022 (https://www.bbc.com/news/world-asia-china-63210545).
(注17)朝日新聞中国総局『紅の党 完全版』171頁。
(注18)Willy Wo-Lap Lam, Chinese Politics in the Era of Xi Jinping, New York and London: Routledge, 2015, p. 56, Cheng Li, Chinese Politics in the Xi Jinping Era: Reassessing Collective Leadership, Washington, D.C.: Brookings Institution Press, 2016, p. 216, 高新「没有江、曾的推挙就没有習近平的上位」自由亜洲電台、2023年1月2日(https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-01022023155742.html)。
(注19)「新一届中央委員会和中央紀律検査委員会誕生記」中国政府網、2007年10月21日(https://www.gov.cn/ztzl/17da/content_781254.htm)。
(注20)Lam, Chinese Politics in the Era of Xi Jinping, p. 58, Bo Zhiyue, China’s Elite Politics: Governance and Democratization, Singapore: World Scientific, p. 25, Susan L. Shirk “The Return to Personalistic Rule,” Journal of Democracy, Vol. 29, No. 2, p. 28, 朝日新聞中国総局『紅の党 完全版』192-194頁。
(注21)吉岡桂子「米中対話 リーコノミクスの序章」『朝日新聞』2013年7月14日、川瀬憲司「中国経済持ち直し」『日本経済新聞』2013年10月1日。
(注22)大越匡洋「色あせるリコノミクス」『日本経済新聞』2014年3月6日。
(注23)「李克強総理在重慶市考察」中国政府網、2020年8月(https://www.gov.cn/zhuanti/202008lkqzlkc/index.htm)、「李克強在重慶考察時強調 做好防汛救災和恢復重建工作 在改革開放中持続努力巩固経済恢復性増長勢頭」新華網、2020年8月23日(http://www.xinhuanet.com/politics/2020-08/23/c_1126403087.htm)。
(注24)「李克強総理出席記者会並回答中外記者提問」新華網、2020年5月29日(http://www.xinhuanet.com/politics/2020-05/29/c_1126047196.htm)。
(注25)「“6億人每月人均収入1000元”?国家統計局回応」人民網、2020年6月15日(http://politics.people.com.cn/n1/2020/0615/c1001-31747507.html)、「怎么看“6億人每月収入1000元”」新華網、2020年6月22日(http://www.xinhuanet.com/politics/2020-06/22/c_1126144559.htm)。
(注26)「李克強総理出席記者会並回答中外記者提問」中華人民共和国中央人民政府、2022年3月11日(https://www.gov.cn/premier/2022-03/11/content_5678618.htm#allContent)。
(注27)「李克強:黄河長江不会倒流,塩田港的水也会滔滔不絶!小平同志“南巡”講話提出“発展是硬道理”,至今聴起来振聾発聵!」騰訊網、2023年10月27日(https://new.qq.com/rain/a/20231027A0AW1300)。ただし、この表現は新華社の公式報道からは削除されている。「李克強在広東考察時強調:在改革開放上勇於探索 為穏経済促進発展注入新動力」新華網、2022年8月18日(http://www.news.cn/politics/leaders/2022-08/18/c_1128923819.htm)。
(注28)“Keqiang ker-ching: How China’s next prime minister keeps tabs on its economy,” The Economist, 9 December 2010 (https://www.economist.com/asia/2010/12/09/keqiang-ker-ching).
(注29)冨名腰隆、金順姫「習体制、「外様」退場」『朝日新聞』2022年10月23日
(注30)宮嶋加菜子、平井良和、冨名腰隆「「ヒトヒト感染」、情報届かず」『朝日新聞』2020年7月5日。