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Commentary

香港とマラヤ(マレーシア)を結ぶ意外な文化交流
戦前の中文図書ビジネスと戦後の華語文芸雑誌

谷垣真理子
東京大学大学院総合文化研究科教授
社会・文化
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マレーシア・クアラルンプールにある陳氏書院。中国からこの地に渡ってきた陳一族の祖先を祀る(筆者撮影)
マレーシア・クアラルンプールにある陳氏書院。中国からこの地に渡ってきた陳一族の祖先を祀る(筆者撮影)

「香港とマラヤ/マレーシアの文化交流」と聞くと、不思議に思う方も多いと思います。「文化交流」で最初に思い当たるのは、第2次世界大戦後、香港の文化産品が台湾や東南アジアへ輸出されたことではないでしょうか。英領植民地であったため、香港の文化産品は共産党と国民党双方のイデオロギー的束縛を受けることなく表現の自由を享受しました。たとえば、香港映画は台湾と東南アジア諸国を主な市場としました。

しかし、「香港とマラヤ/マレーシアの文化交流」は、第2次世界大戦以前から存在していました。香港と東南アジアをつなぐ中文図書ビジネスがそうです。また、戦後は、華語文芸雑誌をシンガポールで創刊した友聯(れん)社の存在があります。以下、教科書ビジネスから説き起こし、香港がどのように東南アジアと交流したのかを見てみましょう。なお、マレー半島の政治状況により、マレーシア独立以降は「マレーシア」、それ以前は「マラヤ」と表記しています。

香港と東南アジアをつなぐ教科書ビジネス

上海書局に1951年から勤務した羅琅によれば、戦前の「南洋」(東南アジアの意)はまだ社会が十分に発展しておらず、自国内で図書出版業が成立していませんでした。そのため、現地の華僑学校の教科書はすべて中国大陸の書店から輸入しました。ただし、シンガポールだけは、上海書局など地元書局が毎年春と秋に教科書と雑誌を輸入しました。

上海書局創業者の陳岳書は上海での会社勤務を経てシンガポールで僑興国貨公司を創立し、国貨(中国産品)の小売りと卸しを行いました。初めは日用雑貨を扱いましたが、あるとき、シンガポールまで時間つぶしのため雑誌や書籍も仕入れたところ、シンガポールで予想以上に引き合いがありました。陳は商機を見て取り、上海にいた王叔暘と上海書局を開業し、雑誌の小売りと教科書の華僑学校への納入を始めました。

当初は、学校で必要な本が何かを調べて、上海か香港でその図書を入手し、上海からタイやマラヤ、シンガポールまで2カ月ほどをかけて船で輸送しました。しかし、このビジネスモデルでは、本が売り切れると新たな補充が困難でした。このため、当時の教科書の主な供給元であった中華書局と商務印書館は、香港に印刷所を設置し、香港から直接東南アジアに輸送し、輸送時間を短縮しました。

中華人民共和国が誕生すると、1949年以前に編集した教科書は新中国の政策に合致せずに発行できなくなりました。一方、日中戦争の時期に、香港や東南アジアにも少なからずの文化人が避難してきました。このような状況下、シンガポールで『南僑日報』を創刊した胡愈之が、上海書局の陳岳書と王叔暘を説得して、教科書作成に乗り出します。陳岳書の妹婿の方志勇は香港にとどまっていた「南来文人」と連携して、シンガポール・マラヤ地区に合致した『現代小学課本』を完成します。かくて、香港で印刷された教科書が、戦後も東南アジアの華僑学校に提供されていきました。南来文人とは、中国大陸から「南方」にやってきた文化人を指します。「南方」は香港だけではなく、「東南アジア」も指します。「南来文人」は、マラヤ/マレーシアの華人による文学活動、「馬華文学」(マラヤ/マレーシアでの華人文学)の重要な担い手でした。1949年の中華人民共和国の成立前後だけでなく、すでに1930年代から日中戦争の混乱を避けて「南下」した文化人が存在します。

こうした中文図書ビジネスを一歩進めて華語文芸雑誌を発行したのが、友聯社でした。友聯社は「美元(米ドルの意)団体」、「緑背(米ドル札は緑が基調。緑背はアメリカの支援を受けたという意)団体」の1つです。冷戦期、アメリカは世界規模で文化広報宣伝活動を展開し、フォード財団やアジア財団は積極的にアジアで文化活動を支援しました。

友聯社は、対外的にはチャイナ・ウォッチングの基地としての友聯研究所(Union Research Institute:URI)が有名でした。冷戦期の香港は、西側諸国が「竹のカーテン」の向こう側の中華人民共和国(以下、中国)を観察するための「窓」の役割を果たしていました。この時期、チャイナ・ウォッチャーの聖地といわれたのが、1940年代末に創立された友聯研究所と、1963年にアメリカの現代中国研究の立て直しのために創立された大学服務中心(Universities Service Centre:USC)でした。

ただし、香港や東南アジアの華人コミュニティーに大きな影響を与えたのは、友聯社が1952 年に発刊した『中国学生周報』でしょう。『中国学生周報』は、香港や中国大陸、海外の各地の華僑学校のニュース、台湾への進学情報などを掲載し、青年や学生からの投稿も多く掲載しました。当時、青年や学生を読者層として企画された出版物はほかにはなく、瞬く間に人気を博しました。1952年7月の創刊号は4面でしたが、その年の12月の第2週から8面構成となりました。『中国学生周報』の編集に携わった羅卞によれば、創刊1周年の際には、当初の数百部から2万部となり、台湾や東南アジアと欧米の華人コミュニティーに販売網を築きました。

『中国学生周報』は香港域内にとどまらず、香港版を基本にして、シンガポール・マラヤ版、ミャンマー版、インドネシア版が作られて各地へと送られていきました。このような背景のもと、1956年に友聯社はマラヤ連邦とシンガポールでの業務の拡大を決定したのです。

華語文芸誌を支え続けた「友聯社」の活動

現地で業務の立ち上げには、友聯社の創立期のコアメンバーが当たりました。第一陣として余徳寛、陳思明、邱然と奚会暉がマラヤに行き、その後、王健武、張海威、姚拓、古梅、黄崖、黎永振などがマラヤで活動しました。

商業的な成功を期待できない華語文芸誌『蕉風』を、マラヤ/マレーシアの友聯社がグループとして支えました。そもそも、友聯社が最も成功した「美元団体」と呼ばれたのは、「友聯文化事業有限公司」として企業化されたことが大きな要因でした。アメリカからの支援は無制限に続くものではありませんでした。

マラヤ/マレーシアでの友聯社の稼ぎ頭は、華語教育関係の参考書や教科書でした。『蕉風』に先立って華文科目の参考書となる『友聯活葉文選』が販売されました。『友聯活葉文選』は、シンガポールおよびマラヤ向けに129 編の文学作品を収めて出版されました。香港と同様に解題や注釈が正確で詳しく、レイアウトや印刷も美しく、全文口語訳されていました。

さらに、第二陣でマラヤに渡った王健武は10年現地に滞在し、友聯社に自前の印刷所を建設しました。その際に活用されたのが、王の中国大陸時代の浙江大学付属中学や国立中央大学のネットワークです。地元の教員と協力して実情にあった教科書を作成・印刷し、友聯社の財政に寄与しました。この結果、『蕉風』の印刷はグループ関連会社に任せることができ、タイプ、組版、印刷という出版に際しての基本的な問題がクリアされました。また、『蕉風』の編集部は『学生周報』(『中国学生周報』のシンガポール・マラヤ版)を兼ねていました。

これに加えて、『蕉風』が長命を保ったのは、友聯社が現地での読者との間に築かれた学友会ネットワークが重要であったように思います。『学生周報』はシンガポールやマラヤの各都市に拠点をつくり、華語中学(中高一貫)から優秀な学生を通訊員にスカウトし、香港と同様に合唱団や劇、文芸創作などの課外活動的活動を提供しました。夏のキャメロン高原でのサマーキャンプは多くの学友の忘れえぬ思い出となりました。学友ネットワークは『蕉風』販売網となり、 学友は『蕉風』の読者層として定着しました。学友の中には、『蕉風』の編集に参加し、自らが馬華文学を創作し、作家となった者もいます。

それにしても、いったい何が彼らをこれほどまで熱心にマラヤ/マレーシアで活動させたのでしょうか。友聯社の設立趣旨は「政治は民主的であれ。経済は公平であれ。社会は自由であれ(政治民主、経済公平、社会自由)」でした。マラヤ/マレーシアでの主眼は「華僑青年に民主思想を宣伝し、中華文化を保存する」ことでした。

友聯社のマラヤへの業務拡大は、マラヤが求めるものでもありました。香港のカトリック教会のネットワークをつうじて、マラヤのリョン・ユーコー(Leong Yew Koh, 梁宇皋)は友聯社にマラヤで青年のために文化活動やメディアでの活動を行うよう、働きかけを行いました。リョンの妻と汪精衛の妻は実の姉妹で、リョンは独立後、マラッカの州長となった人物です。

1955年当時の香港の人口は249万人。1957年のマラヤの全人口は627.8万人で、華人人口は233万人でした。マラヤの華人人口が香港を上回ったわけではありませんが、文化企業としての発展を考えると、マラヤは「発展の可能性が大きい」と友聯社のコアメンバーに思わせました。マラヤでの華文教科書の需要は、総数としては香港を上回らなかったでしょうが、戦前の中文図書ビジネスの状況を考えますと競争相手となる華語出版社は香港より少なかったと予想されます。香港友聯社とタイアップすることで、マラヤ友聯社は印刷技術や編集で競争優位を獲得したと思われます。東南アジア諸国の中では、華人人口はマラヤよりもインドネシアの方が多かったでしょうが、シンガポールが分離独立した後も、現在なお人口の4人に1人が華人という状況は、中文図書の需要が堅実に存続したことを印象づけます。加えて、同じ英領植民地であったので、香港とマラヤとの往来や居住の手続きは簡単でした。

共産党統治下の生活から逃れてきた知識青年たち

とはいうものの、各地の華人コミュニティーと連絡を取ることは、当時、危険と隣り合わせでした。1948年にマラヤ共産党が武装蜂起したことで、植民地政府は山間部でのゲリラ活動での食糧・物資の供給源を断つために、地方で華人を強制的に新村に集住させて鉄条網の中で管理していました。政府の検問所では通行検査が行われ、食べ物を携帯していれば、マラヤ共産党への支援物資と誤解され、逮捕・収監される可能性があった時代です。

結局のところ、中国大陸から中国共産党統治下の生活から逃れてきた知識青年にとって、故郷を離れたという点では香港もマラヤ/マレーシアも大差なかったのかもしれません。

友聯社は、中国大陸で大学を卒業し香港に南下してきた知識青年によって発足しました。創立幹部には、香港生まれはもちろん、広東人も主流ではありませんでした。たとえば、マラヤに第一陣として入った邱然は、こうした幹部の特徴をよく表しています。北京大学西洋言語学科の出身で英語が堪能でした。英語名はMaria Yen、ペンネームは「燕帰来」でした。彼女の『紅旗下的大学生活』の本の印税が友聯社創立の資本金になったといわれます。邱然は友聯社の創立者の1人で、友聯出版社秘書長、友聯研究所所長を務めました。実父・邱椿は北平師範大学や北京大学、北京師範大学(北京大学の教育系が北京師範大学に編入)で教鞭を執り、青年党に参加した人物です。

長年、マレーシア友聯社を切り盛りした姚拓は、『蕉風』の1999年の休刊、ジョホールバルの南方大学学院による2002年の復刊を見届けた後、2009年にマレーシアで永眠しました。

参考資料:

羅卡 2009「冷戦時代《中国学生周報》的文化角色与新電影文化的衍生」黄愛玲・李培徳(編)『冷戦与香港電影』111-116頁,香港:香港電影資料館。

香港出版学会 2018 『書山有路――香港出版人口述歴史』、香港: 香港出版学会。

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