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Commentary

香港とマラヤ(マレーシア)を結ぶ意外な文化交流
戦前の中文図書ビジネスと戦後の華語文芸雑誌

谷垣真理子
東京大学大学院総合文化研究科教授
社会・文化
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マレーシア・クアラルンプールにある陳氏書院。中国からこの地に渡ってきた陳一族の祖先を祀る(筆者撮影)
マレーシア・クアラルンプールにある陳氏書院。中国からこの地に渡ってきた陳一族の祖先を祀る(筆者撮影)

 それにしても、いったい何が彼らをこれほどまで熱心にマラヤ/マレーシアで活動させたのでしょうか。友聯社の設立趣旨は「政治は民主的であれ。経済は公平であれ。社会は自由であれ(政治民主、経済公平、社会自由)」でした。マラヤ/マレーシアでの主眼は「華僑青年に民主思想を宣伝し、中華文化を保存する」ことでした。

 友聯社のマラヤへの業務拡大は、マラヤが求めるものでもありました。香港のカトリック教会のネットワークをつうじて、マラヤのリョン・ユーコー(Leong Yew Koh, 梁宇皋)は友聯社にマラヤで青年のために文化活動やメディアでの活動を行うよう、働きかけを行いました。リョンの妻と汪精衛の妻は実の姉妹で、リョンは独立後、マラッカの州長となった人物です。

 1955年当時の香港の人口は249万人。1957年のマラヤの全人口は627.8万人で、華人人口は233万人でした。マラヤの華人人口が香港を上回ったわけではありませんが、文化企業としての発展を考えると、マラヤは「発展の可能性が大きい」と友聯社のコアメンバーに思わせました。マラヤでの華文教科書の需要は、総数としては香港を上回らなかったでしょうが、戦前の中文図書ビジネスの状況を考えますと競争相手となる華語出版社は香港より少なかったと予想されます。香港友聯社とタイアップすることで、マラヤ友聯社は印刷技術や編集で競争優位を獲得したと思われます。東南アジア諸国の中では、華人人口はマラヤよりもインドネシアの方が多かったでしょうが、シンガポールが分離独立した後も、現在なお人口の4人に1人が華人という状況は、中文図書の需要が堅実に存続したことを印象づけます。加えて、同じ英領植民地であったので、香港とマラヤとの往来や居住の手続きは簡単でした。

共産党統治下の生活から逃れてきた知識青年たち

 とはいうものの、各地の華人コミュニティーと連絡を取ることは、当時、危険と隣り合わせでした。1948年にマラヤ共産党が武装蜂起したことで、植民地政府は山間部でのゲリラ活動での食糧・物資の供給源を断つために、地方で華人を強制的に新村に集住させて鉄条網の中で管理していました。政府の検問所では通行検査が行われ、食べ物を携帯していれば、マラヤ共産党への支援物資と誤解され、逮捕・収監される可能性があった時代です。

 結局のところ、中国大陸から中国共産党統治下の生活から逃れてきた知識青年にとって、故郷を離れたという点では香港もマラヤ/マレーシアも大差なかったのかもしれません。

 友聯社は、中国大陸で大学を卒業し香港に南下してきた知識青年によって発足しました。創立幹部には、香港生まれはもちろん、広東人も主流ではありませんでした。たとえば、マラヤに第一陣として入った邱然は、こうした幹部の特徴をよく表しています。北京大学西洋言語学科の出身で英語が堪能でした。英語名はMaria Yen、ペンネームは「燕帰来」でした。彼女の『紅旗下的大学生活』の本の印税が友聯社創立の資本金になったといわれます。邱然は友聯社の創立者の1人で、友聯出版社秘書長、友聯研究所所長を務めました。実父・邱椿は北平師範大学や北京大学、北京師範大学(北京大学の教育系が北京師範大学に編入)で教鞭を執り、青年党に参加した人物です。

 長年、マレーシア友聯社を切り盛りした姚拓は、『蕉風』の1999年の休刊、ジョホールバルの南方大学学院による2002年の復刊を見届けた後、2009年にマレーシアで永眠しました。

参考資料:

羅卡 2009「冷戦時代《中国学生周報》的文化角色与新電影文化的衍生」黄愛玲・李培徳(編)『冷戦与香港電影』111-116頁,香港:香港電影資料館。

香港出版学会 2018 『書山有路――香港出版人口述歴史』、香港: 香港出版学会。

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