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Commentary

追悼・李克強――なぜ習近平の後塵を拝したのか
衆目一致の超エリートが「最も存在感の薄い総理」に甘んじた

李昊
東京大学大学院法学政治学研究科准教授、日本国際問題研究所研究員
政治
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2012年11月15日、中国共産党の第18期中央委員会第1回総会を終え、記者会見場で手を振る総書記に選出された習近平氏(左)と新政治局常務委員の李克強氏。李氏は習氏の後塵を拝し、最高指導者になれなかった(写真:共同通信IMAGE LINK)

 最高指導者への道は断たれたものの、李克強はナンバー2たる総理として、国家運営の重責を担うこととなった。制度化が進められ、集団指導体制が定着しつつあり、党内民主の空気感が中国共産党を包む中、2012年から10年にわたって習と李が団結して中国の政治運営を担うことが期待された。

 しかし、周知のとおり、物事は想定どおりには進まなかった。習近平の個人支配化が急速に進められ、さまざまな制度や慣習が打ち破られていった。そのかたわら、李総理の存在感は薄れていった。李克強の冷遇は広く知られており、ここではいくつか象徴的なエピソードを振り返ることとする。

忘れ去られた「リコノミクス」、軽視された活動報道

 まず、早々に忘れ去られた「リコノミクス(李克強経済学)」である。バークレイズ・キャピタルが使い始め、李克強の経済政策の代名詞として2013年には広く注目された。端的に言えば、財政出動に頼る政府主導の経済から、民間企業や個人消費の重視する市場主導の経済への転換を目指す政策である(注21)。既得権益が強いこともあって、当初から実現可能性が疑問視されていた面もあったが、内外で一定の期待もあった。しかし、2013年の三中全会以後、経済政策における李克強の存在感は急速に低減していった。三中全会で採択された「改革の全面的深化における若干の重大な問題に関する中共中央の決定」にリコノミクスの考え方が一定程度盛り込まれたものの、国有企業の主体的な地位が改めて確認されたほか、改革案の具体性に乏しく、期待はずれとの声も小さくなかった。

 しかも「決定」の説明を習近平総書記自らが行い、加えて中央全面改革深化領導小組が新たに設置され、習近平が経済政策においても明らかに影響を強めていった。早くも2014年3月には『日本経済新聞』で「リコノミクスは失速し、死語にすらなりつつある」と報じられた(注22)。『朝日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』に至っては、その後2016年、2017年まで紙面で言及されることもなくなった。本来、経済運営は国務院総理の仕事であるはずだが、習近平政権においては、劉鶴(中央財経領導小組弁公室主任、副総理を歴任)という経済ブレーンの助けを得ながら習近平自身が主導していたといわれる。

2013年6月、北京で開かれた経済フォーラムの出席者と面会。当時は首相の座にあり、リコノミクスによる経済政策を主導するとみられていた(写真:共同通信IMAGE LINK)

 活動報道にも大きな変化が現れた。李克強は災害があると、真っ先に現地入りするなど活発に活動した。2020年夏の洪水災害の際には、重慶を訪れ、長靴を履いて泥水に入って市民と交流した。視察の様子は8月20日に政府のウェブページに掲載されたが、新華社、『人民日報』、CCTVなどは遅々として報道せず、8月23日の夜になって、やっと報道された(注23)。同時期、習近平は安徽省を視察していたが、それは詳細に報道されていた。習近平政権に入ってから、とくに第2期政権期以降、報道面で総書記である習近平への偏重があからさまになっていった。それは活動の内容の重要性に関係なく、手紙を送った、会談があった、会議に出席したといった些細なものでも必ず習近平の活動報道に時間と紙面を割き、総理である李克強は軽視された。李克強の存在感の低下は、決して活動量の不足や怠慢ではなく、こうしたメディア統制によって意図的に誘導されたものだった。

 習近平と李克強は対立しているという見方も頻繁に言及される。もちろん、思想面や政策面での差異は明らかに大きい。しかし、習近平の権力確立が急速に進んだこともあって、李克強は習近平と正面から対立することはせず、従ったというのが大方の専門家の見方だ。かつてスーパースターだった李克強はナンバー2の地位を甘んじて受け入れた。その結果、李克強は中華人民共和国史上、最も存在感の薄い総理となってしまった。

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