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Commentary

追悼・李克強――なぜ習近平の後塵を拝したのか
衆目一致の超エリートが「最も存在感の薄い総理」に甘んじた

李昊
東京大学大学院法学政治学研究科准教授、日本国際問題研究所研究員
政治
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2012年11月15日、中国共産党の第18期中央委員会第1回総会を終え、記者会見場で手を振る総書記に選出された習近平氏(左)と新政治局常務委員の李克強氏。李氏は習氏の後塵を拝し、最高指導者になれなかった(写真:共同通信IMAGE LINK)

2007年10月22日、胡錦濤総書記が8人の同僚たちを引き連れて、人民大会堂の記者会見場に現れた。午前に開かれた中国共産党第17期中央委員会第1回全体会議で新たな政治局常務委員会のメンバーが選出され、中国の最高指導部が世界中のメディアにお披露目された。

注目は中央委員から政治局委員を飛ばして、最高指導部に抜擢された習近平と李克強の2人の若手だった。しかし、2人にとっての晴れ舞台は同時に李克強にとって、胡錦濤の後継者をめぐる権力闘争の敗北が世界中に明かされた場でもあった。習近平が序列6位、李克強が序列7位となり、それぞれ中央書記処書記、国務院副総理の役職を担うこととなった(厳密には国務院副総理への就任は2008年3月)。5年後の2012年には、習近平総書記と李克強総理が誕生することが確実になった。スーパースター李克強は最高指導者になれなかった。なぜ李克強は習近平の後塵を拝したのだろうか。

派閥色、世渡り下手、「赤い貴族」の壁

第1に、李克強は派閥の色が強くつきすぎていた。江沢民と胡錦濤と、中国共産党では2代続けて派閥中立的な人物が総書記に選出されていた。誰からも受け入れられる人選というのが最高指導者の条件であった。その点、李克強は胡錦濤に近すぎて、胡錦濤に批判的な勢力には受け入れられなかった。江沢民はそうした勢力を糾合して、比較的に中立的な習近平を担ぐことに成功した。

第2に、李克強は「世渡り下手」だった。「胡錦濤が長老たちとの関係を大切にしない李克強にいらだち、挨拶をしておくように叱りつけた」と報じられる(注14)。一方のライバルの習近平は、「部下や企業家とのつきあいは薄いのに、老幹部のところには好んで足を運んでいたようだ」と言われるように(注15)、党内の人脈を大事にしていたという。老幹部たちにとって、習近平は堅実で仕事ができるが、温和で人懐っこく、「誰とでも妥協できる」(注16)人物と思われたのだ。

第3に、李克強は普通の家庭の出身であった。一方、習近平は革命の元勲を父に持つ「紅二代」であった。1990年代をつうじて、紅二代はグループとして勢力が振るわず、人気もなく、中央委員にもほとんど選出されなかった。しかし、2000年代に入ると、紅二代が再び台頭し始め、時の総書記江沢民も習近平が紅二代であることを「党への忠誠心が高い」と評価したという(注17)。2007年、習近平が李克強より上位で政治局常務委員会に入ったのは、江沢民の側近である曽慶紅の推薦があったと広く信じられているが(注18)、曽慶紅も紅二代である。李克強は勉学に励むことで立身出世を実現するチャイニーズ・ドリームの象徴である。しかし、最後の一歩は「赤い貴族」に阻まれることとなった。

2007年の李克強の運命を分けた人事決定の最大の要因となったのは、「民主推薦」だった。詳細な制度設計や結果は公表されていないが、若干の説明は新華社から公表されており(注19)、事実上の人気投票だったようである。海外の報道や分析を総合すると、ここで習近平が李克強よりも多く票を集め、2007年の指導部人事はこの民主推薦の投票結果が反映されたと言われる(注20)。端的に言って、2007年時点において、李克強よりも習近平のほうが人気の面で党内でより広く受け入れられていたのである。

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