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Commentary

福島原発「処理水」問題における中国の宣伝政策
8月に対日批判を強め、9月にトーンダウンした理由

川島真
東京大学大学院総合文化研究科教授
国際関係
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9月6日、ジャカルタでのASEANプラス3の首脳会議に臨む中国の李強首相(左)と岸田首相。立ち話を行い、処理水について双方の言い分を伝え合ったという(写真:共同通信IMAGE LINK)
9月6日、ジャカルタでのASEANプラス3の首脳会議に臨む中国の李強首相(左)と岸田首相。立ち話を行い、処理水について双方の言い分を伝え合ったという(写真:共同通信IMAGE LINK)

 東京電力福島第一原発の処理水の海洋放出をめぐり、中国は長期的に日本を批判してきた。当初、韓国や台湾の一部、そして南太平洋島嶼(しょ)国なども中国に同調する向きがあったが、日本がIAEA(国際原子力機関)の調査団を受け入れて2023年7月に処理水の安全性を確認し、同様に韓国の調査団も受け入れて安全性について一定の了解を得たことで、国際社会も、また日本国内でも処理水放出への反対は以前よりも低調になった。外交の舞台では、6月末から7月初旬が勝負どころだった。ここで日本は中国からの「攻撃」を防いだ。だが8月下旬、中国は大々的な国内キャンペーンを実施した。

 中国が福島の処理水問題に「目をつけた」のにはいくつかの理由が考えられる。1つは、環境などの国際的な標準にも関わる問題で先進国である日本を批判することで、中国が主張している「先進国こそが時代遅れで、先進国の主導する既存の秩序では世界の諸問題を解決できない」ということを示そうとした、というものだ。また1つには、歴史認識問題に代わる、日本を長期的に批判する材料を探そうとしている、ということもいわれる。

「美しい中国」と「生態文明思想」に泥を塗られた

 8月下旬、中国は処理水放出に強く反発し、国内外で活発な宣伝活動を行った。おそらくは中国共産党宣伝部の動員により、主要メディアが一斉に日本批判を展開し、福島の「汚染水」は太平洋全体、最終的には東シナ海、南シナ海、黄海、渤海湾にまで広がると主張した。

 ではなぜ、中国は8月下旬にこれほど強い反発を示したのであろうか。

 1つの説明は、振り上げた拳を下ろせなかったためだということだ。これは国内宣伝の面で中国政府が自ら修正したり、間違いを認めたりすることが極めて難しいということも関係している。ただ、このことだけが理由だった、ということだけでもなかったようだ。

 とくに注意しなければならないと考えられるのは、習近平の生態環境関連の発言だ。生態環境は習近平政権がとくに力を入れている領域であり、先進国に対抗するうえでも重視され、また安全保障とも関連づけられる領域である。7月18日、習近平は全国生態環境保護大会で「美しい中国の安全のボトムラインを死守するために、総合的な国家安全観を完徹し、各種の災難や挑戦に対して積極的、かつ有効に対処し、生態安全や核・放射線の安全などを真剣に守り、我々が生存し発展していくための自然環境や条件が脅威や破壊を受けないように保障しなければならない」と述べた。ここで習近平が「核・放射線の安全」に言及したことが重要だ。こののち、生態環境部長などがこの習近平の文言を繰り返すことになった。

 前月の6月末には全人代常務委員会第三次会議において8月15日を「全国生態日」とすることが決まっていた。その日は、まさに「習近平生態文明思想」を社会全体に広める宣伝学習のための記念日であった。日本が処理水の放出について明確にし、それを実施したのはその「全国生態日」の1週間程度あとのことである。中国からすれば、「核・放射線の安全」を明確にした「生態環境」関連のキャンペーンの矢先に日本が処理水放出を決めたとなれば、黙っているわけにはいかない、という面もあったのではなかろうか。この時、おそらくは中国共産党宣伝部の号令とともに、主要メディアが一斉に「汚染水」のことを報道し、対外的には日本批判キャンペーンを張った。

 しかし、この宣伝の内外における効果には限界があった。韓国、また台湾の国民党なども中国とは同調せず、南太平洋の島嶼国でもわずかにソロモン諸島が中国に賛同しただけであった。日本国内でも、風評被害を懸念する声や処理水放出に反対する動きはあったが、大きな社会運動となるには至らなかった。他方、中国国内では中国沿岸部の海産物さえ買い控える傾向が生じ、9月に入ると中国は対日批判を弱めた。

 中国の対日批判が全面的なものではなくなったと感じさせられたのは、9月3日であった。この日は、習近平政権になってから公的に定められた「中国人民抗日戦争と反ファシスト戦争勝利記念日」である。だが、この日の行事には習近平はもとよりトップ7も姿を見せず、宣伝部部長で政治局委員である李書磊が現れただけであった。全面的な対日批判を行うなら格好の機会を利用しなかったのだから、トーンダウンが印象づけられた。

 そして9月6日、ASEANプラス3(日中韓)首脳会議に出席していた岸田文雄首相は李強首相と立ち話を行い、処理水について双方の言い分を伝え合ったという。これは、一定程度の「(直接)対話」を双方が行う姿勢を示したことを意味する。その後、9月18日の満洲事変記念日はさらに低調で、中央の政治局員さえ行事に姿を見せなかった。

継続している「核・放射線」領域での日本批判

 だが、中国が処理水をめぐる対日批判をやめたわけではない。日本産の海産物に対する禁輸措置は継続しているし、中国政府からの批判も継続している。

 問題は、その批判の主体である。対日批判はもはや、中国共産党宣伝部が大規模なキャンペーンとして行うものではなく、中国国内において「核・放射線の安全」を主管する生態環境部、またIAEA業務を管轄する国家原子力機構などが展開の主体となってきているということだ。つまり「生態環境」、とりわけ「核・放射線の安全」の領域での日本批判に限定されてきている、という印象である。日中間の交流事業も一定の範囲で継続されているし、政府レベルの水面下のやりとりも盛んだという。

 福島処理水問題をめぐる日中関係はややわかりにくい。だが、現在のところ対日批判は終わっていないもののその程度は一時よりも低調だ。本稿では、中国側の対日批判の程度やその主体の変化、その背景について公開情報でわかる範囲での、一つの暫定的な見方を示したつもりである。今後、まったく異なる展開が生じる可能性もあり、引き続き観察が必要である。

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