Commentary
変わりゆく中国におけるフェミニストのもがき
王政ミシガン大学教授が語る社会主義時代からのフェミニズム史
東京大学中国学イニシアティブでは、中国のフェミニズムに関する研究で世界的に知られる王政ミシガン大学名誉教授を招き、講演(中国語)をいただいた。以下は2023年7月19日に東京大学赤門総合研究棟で行われたその講演を日本語でまとめたものである(編者:丸川知雄 東京大学社会科学研究所教授、李亜姣 日本学術振興会外国人特別研究員)。
建国初期に台頭した第1世代フェミニスト
今日は現代中国におけるフェミニズムの歴史について語りたい。
現代中国のフェミニズムは3つの世代に分けることができる。第1世代は中華人民共和国建国初期の社会主義国家フェミニスト(1949~1964)、第2世代は第4回世界女性会議をきっかけとし、それに先駆けてNGOを設立したフェミニスト(1995~2005)、そして第3世代は国家資本主義のもとで台頭した若いフェミニスト(2009~)である。
まず第1世代のフェミニストについて話そう。
1949年の中華人民共和国建国の時点で、女性の共産党員は53万人いた。その大部分は女性解放運動をきっかけに党の活動に参加した人々だ。そうした流れを受けて、中国共産党の綱領(党綱)の中にも男女平等の原則が書き込まれた。
中国の共産主義思想の源流である陳独秀は1915年に『新青年』を創刊したが、その中で封建主義を打破し、自由主義と女性の権利の主張を称揚した。陳独秀は「孔子の道と現代生活」という文章の中で儒教の男尊女卑の思想を批判し、女性解放を支持した。陳独秀はのちにマルクス・レーニン主義を受容した。
中華民国時代までの中国で女性がいかに抑圧されていたかを示す一例として、湖南省で行われていた「沈塘」という習わしがある。女性が何らかの理由で2度目の結婚を試みようとしたとき、その女性を池に沈めて殺してしまう私刑である。
女性の抑圧が蔓延していた社会の中で、夫の暴力や専横、性差別などをきっかけとして、社会の変革と女性の解放のために立ち上がる女性たちがいた。そうした女性の1人である黄定慧は、望まない婚姻から逃れるため1926年に湖南省から湖北省の武昌へ行き、北伐軍の中で共産党に出会い、入党した。
このように、家庭内での抑圧や社会での性差別に遭った女性たちが社会を変えたいと願って草創期の中国共産党に入党した。全国婦女連合会(婦連)幹部であった章蘊は女性の入党の最大の動機はそうしたものであったと言っている。
「中国フェミニズムの元老」とされる2人の女性活動家
女性の党員たちは、女性の労働者や農民を革命運動に動員する仕事を担うようになり、女性運動が活発になった。そうした活動家の1人だったのが、周恩来と結婚した鄧頴超である。鄧頴超は五四運動以来、天津で女性運動を組織し、1925年に入党した。
同じころ中国共産党に入った女性活動家として蔡暢がいる。蔡はフランス留学中の1923年に入党し、25年に帰国した後、女性運動を率いた。
鄧頴超と蔡暢の2人は中国フェミニズムの元老である。彼女らの働きかけと影響力があったため、初期の中国共産党の方針においてフェミニズムが重要な要素として内包されていた。中華人民共和国成立直後の1949年12月に中国でアジア女性大会が開催されたことも、フェミニズムの重要性を示している。
中華人民共和国の成立後、共産党員たちは政府や社会でさまざまな要職に就くことになったが、53万人いた女性党員たちがみな何らかの役職に就けたわけではない。当時、女性の9割が非識字者であったことは就職に不利に作用した。女性党員には識字運動や女性の出産保健運動の仕事があてがわれることが多く、衛生部で多くの女性が働いた。
1950年に中国で婚姻法が制定されたが、これを主導したのが鄧頴超である。婚姻法では女性が独立の人格や経済的権利を持ち、結婚後も姓を変えない、ということが定められた。また、女性も生産的労働に参加しなければならないとされた。鄧頴超は、女性は何でもできるのだと述べた。
1949年に成立した全国婦女連合会(婦連)は党・政府のヒエラルキーの中に組み込まれた。婦連の主席は同級の党委員会が任命した。
鄧頴超や蔡暢ら社会主義国家フェミニストは、中国共産党のディスコースの中で否定的な意味を持つ「封建主義」という言葉を、性差別、家父長制、ミソジニー(女嫌い)の同義語として使用し、フェミニズムの主張を共産党の方針の中に取り込んでいった。
映画に登場した女性戦士、雑誌の表紙を飾った女性船長
満鉄と満州国が設立した映画会社「満洲映画協会(満映)」は、日本の敗戦後の1946年に中国側に接収され、女性党員で俳優の陳波児が満映を基盤として東北電影製片廠を設立、のちに長春電影製片廠と名を改めた。また、婦連は『新中国婦女』という雑誌の刊行を始めた。私は映画や雑誌で女性がどう描かれるかを研究した。
東北電影製片廠は1948年に映画『中華女児』を製作した。その中で女性戦士が女性戦士を助ける場面がある(図1)。この映画は女性の英雄をテーマとする社会主義映画の嚆矢となった(編者注:映画は1949年12月のアジア女性大会で初演された。日本による中国東北部侵略に抗して戦う女性戦士たちを描いた作品である)。
雑誌『新中国婦女』では、それまで男性の仕事だとされてきた職場で活躍する女性を毎号のように表紙で取り上げた。図2に示すように、女性のパイロットや船長、機関車の運転手、溶接工などが表紙に取り上げられた(編者注:『新中国婦女』に掲載された女性船長の孔慶芬は1933年生まれ。初級中学を卒業後に河北工学院に入学したが、病気のため退学し、その後港で働いていた。1953年に父母や周囲の反対を押し切って操船術を学び始め、1954年に「三副」船員の試験に合格した。その後もより高い資格を取得し、1969年には船長の資格試験に合格した。1976年には船長として遠洋貨物船「風涛」に乗り、横浜港に入港した)。
建国当初、女性政策の背後には必ず女性からの提案や要求があった。1952年に蔡暢が婦連の主席として毛沢東に面会を求め、女性の要求を突き付けた。だが、1957年には反右派闘争の中で女性幹部も打撃を受けた。例えば、上海のある婦連幹部は託児所や食堂が足りないとクレームをつけたら、右派だと批判されてしまった。
それ以降は共産党の支配の中に女性運動が隠れてしまった。
1980年代になると、さまざまな言論が活発になったが、その中で男性エリートが性差を強調することによって、社会主義フェミニズム的な男女平等に対するバックラッシュが起きた。例えば社会学者の鄭也夫は「中国の女性は日本に学んで家庭に入れ」と主張した。
他方で、社会主義国家フェミニストたちによって女性研究が活発になり、新しいフェミニストの運動につながった。毛沢東時代には社会主義的なジェンダー平等メカニズムがあったが、それが市場経済の導入とともに崩壊し、社会の中で急速に性差別が露わとなった。女性研究があったおかげで、女性たちはそうした社会に対する懸念を示すことができた。しかし、1989年の天安門事件以降、女性学者の自発的な女性研究は停止してしまった。
1990年代以降は、『新中国婦女』の表紙から各界で活躍する女性が消えてしまい、むしろ消費者としての女性、享楽する女性、果ては性の対象としての女性像が現れるようになった。2007年の『中国婦女』の表紙(図4)は1960年代までの『新中国婦女』と好対照を見せている。
第2世代フェミニストが主張した「ジェンダー」
1995年に世界女性大会が北京で開催されたのを機に、NGOによる女性運動が活発になり、多くの民間組織が出現した。その例として、陝西省婦女理論婚姻家庭研究会、中国法学会の家庭内暴力に反対するネットワーク、中国におけるジェンダーと開発などが挙げられる。
また、「陰道独白」という劇(注1)が2003年から全国で上演され始めた(編者注:「陰道独白」はアメリカの劇作家イブ・エンスラー作の朗読劇「ヴァギナ・モノローグス」の中国語版である。日本では宮本亜門の演出により上演された。中国では2003年に中山大学教授艾暁明とその学生たちによって中国語版が初演された。その後、BCome小組の「陰道之道」など中国化された内容のものが上演されたが、2017年に上演に対する制約が強まり、2018年以降は上演されていないようである)。
この劇は妻に対する夫の暴力を描くなど、フェミニズム的な劇であったが、中国では2018年に上演禁止となってしまった。
ジェンダー(中国語で「社会性別」)がフェミニストにとって社会正義や平等を追求する比較的安全な領域となった。第1世代の徹底的な女性解放のヴィジョンに比べ、「ジェンダー」という言葉を用いた主張は、もって回った言い方になっている。
中国政府が1980年代から推し進めてきた一人っ子政策は、女性の権利という点では肯定的な影響をもたらした。なぜなら女性が一人っ子である場合には、家庭内の資源を兄弟と争う必要がないからである。親たちは一人っ子の娘に対して男子と変わらぬ教育費支出を行うので、2012年時点で修士号取得者の51.46パーセントが女性となり、大学生の51.03パーセントが女性となった(編者注:王教授は触れなかったが、一人っ子政策がもたらしたもう1つの結果が出生時の異常な性比である。女児100人に対し男児が103~107人程度生まれるのが通例であるが、一人っ子政策が厳しく施行されていた時代の中国では、男の子の誕生を願う親たちが出生前の検査で女児とわかると妊娠中絶をしてしまうことが少なくなかった。その影響で2004年時点では出生性比が女児100人に対し男児が121人にもなるという異常な事態となった。つまり、厳格な一人っ子政策のもとでは、女児は運よく生まれ出ることができれば家庭内の資源を兄弟と争うことがないのだが、そもそも生まれ出る機会が減らされてしまったのである。2015年に一人っ子政策が終了して以降は異常な出生性比は徐々に解消されており、2021年には女児100人に対し男児108人となっている)。
運動が弾圧される一方で、女性の権利は進歩に向かう
セクシャル・ハラスメントに反対する運動も活発化した。ところが、近年フェミニズム運動が当局によって弾圧される事件が相次いでいる。2015年3月にはフェミニスト5人が国際女性デーにバスの中で痴漢反対のステッカーを配布する計画を立てたところ、「騒動挑発罪」の容疑で警察に1カ月余り拘留される事件があった。「女権5姉妹事件」とも呼ばれる。
2017年に全国婦連の党書記の宋秀岩は「フェミニズムは海外の敵対勢力の手先である」と述べた。2018年に「#MeToo」運動が中国に波及し、2022年には鎖につながれて奴隷化された女性のニュースが広まって衝撃を与えた。ところが、「#MeToo」運動を率いた記者の黄雪琴が2021年に逮捕された(編者注:新聞記者の黄雪琴は2017年に中国の女性記者416人に対するアンケート調査を行い、8割以上の女性記者がセクハラに遭った経験があることを発表した。2021年9月に広州市の警察によって友人の王建兵とともに拘束され、2カ月後に「国家政権転覆扇動罪」の容疑で取り調べを受けていることが明らかとなった)。
ただ、女性の権利において進歩した面もある。まず2015年に反家庭暴力法が制定された。2016年にはトイレの設置数を男:女=2:3ないし1:2、上海では1:2.5にすることが決まった。2018年には杭州市で学校内における未成年者に対するセクシャル・ハラスメント防止条例が施行され、民法典にも「セクシャル・ハラスメントを禁ずる」と書き込まれた。
注1:遠山日出也「中国版《ヴァギナ・モノローグス》上演運動と行動派フェミニスト」『中国女性史研究』No.28, 2019年を参照されたい。
追記:王政教授の講演後、姚毅 大阪公立大学客員研究員は「社会主義時期の抑圧的側面、例えば『階級』の絶対視による『女性』の分野をどう理解すべきか、1980年代以降中国に導入されたジェンダー概念に批判する意見をどう見るか」と質問した。また、李亜姣 日本学術振興会外国人特別研究員は、「『反封建』のディスコースは復活できるのか、国家資本主義時代において社会主義国家フェミニストはまだ存在しているのか」と質問した。講演会には大学院生などが多数参加し、終了後に王政教授との交流を求める姿も見られた。