Commentary
変わりゆく中国におけるフェミニストのもがき
王政ミシガン大学教授が語る社会主義時代からのフェミニズム史
中華人民共和国の成立後、共産党員たちは政府や社会でさまざまな要職に就くことになったが、53万人いた女性党員たちがみな何らかの役職に就けたわけではない。当時、女性の9割が非識字者であったことは就職に不利に作用した。女性党員には識字運動や女性の出産保健運動の仕事があてがわれることが多く、衛生部で多くの女性が働いた。
1950年に中国で婚姻法が制定されたが、これを主導したのが鄧頴超である。婚姻法では女性が独立の人格や経済的権利を持ち、結婚後も姓を変えない、ということが定められた。また、女性も生産的労働に参加しなければならないとされた。鄧頴超は、女性は何でもできるのだと述べた。
1949年に成立した全国婦女連合会(婦連)は党・政府のヒエラルキーの中に組み込まれた。婦連の主席は同級の党委員会が任命した。
鄧頴超や蔡暢ら社会主義国家フェミニストは、中国共産党のディスコースの中で否定的な意味を持つ「封建主義」という言葉を、性差別、家父長制、ミソジニー(女嫌い)の同義語として使用し、フェミニズムの主張を共産党の方針の中に取り込んでいった。
映画に登場した女性戦士、雑誌の表紙を飾った女性船長
満鉄と満州国が設立した映画会社「満洲映画協会(満映)」は、日本の敗戦後の1946年に中国側に接収され、女性党員で俳優の陳波児が満映を基盤として東北電影製片廠を設立、のちに長春電影製片廠と名を改めた。また、婦連は『新中国婦女』という雑誌の刊行を始めた。私は映画や雑誌で女性がどう描かれるかを研究した。
東北電影製片廠は1948年に映画『中華女児』を製作した。その中で女性戦士が女性戦士を助ける場面がある(図1)。この映画は女性の英雄をテーマとする社会主義映画の嚆矢となった(編者注:映画は1949年12月のアジア女性大会で初演された。日本による中国東北部侵略に抗して戦う女性戦士たちを描いた作品である)。
雑誌『新中国婦女』では、それまで男性の仕事だとされてきた職場で活躍する女性を毎号のように表紙で取り上げた。図2に示すように、女性のパイロットや船長、機関車の運転手、溶接工などが表紙に取り上げられた(編者注:『新中国婦女』に掲載された女性船長の孔慶芬は1933年生まれ。初級中学を卒業後に河北工学院に入学したが、病気のため退学し、その後港で働いていた。1953年に父母や周囲の反対を押し切って操船術を学び始め、1954年に「三副」船員の試験に合格した。その後もより高い資格を取得し、1969年には船長の資格試験に合格した。1976年には船長として遠洋貨物船「風涛」に乗り、横浜港に入港した)。