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Commentary

ほんとうの中国を表現するための模索
中国のノンフィクション文学

鈴木将久
東京大学大学院人文社会系研究科教授
社会・文化
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中国のノンフィクションが示しているのは、中国の内部において、複雑な現実と格闘しながら、既成の言葉で片付けることなく、ほんとうの中国を表現するための模索がなされていることである。写真は鏡張りの天井が特徴的な上海市のチェーン書店「鍾書閣」の店内。2020年6月2日(共同通信社)
中国のノンフィクションが示しているのは、中国の内部において、複雑な現実と格闘しながら、既成の言葉で片付けることなく、ほんとうの中国を表現するための模索がなされていることである。写真は鏡張りの天井が特徴的な上海市のチェーン書店「鍾書閣」の店内。2020年6月2日(共同通信社)

2010年代以降、中国文学において「ノンフィクション」と呼ばれるジャンルが注目されている。中国語で「非虚構」と書かれるこのジャンルは、文字通り、虚構でない創作を意味している。その範囲は広く、いわゆる散文的な文章や、近年ではAIが人類社会にもたらす影響を論じた文章なども含まれる。中国文学でノンフィクションが注目されるようになったのは、2010年に雑誌『人民文学』が「中篇小説」「短篇小説」「散文」「詩歌」などと並べて、「ノンフィクション」のコーナーを設けたことに始まる。このとき、従来のルポルタージュ(中国語では紀実文学)とは異なるジャンルとして、ノンフィクションが現れた。それ以来、さまざまな種類のノンフィクション作品が生まれ、ノンフィクションをめぐって多くの議論が起こった。そうした現象から何が見えてくるだろうか。

中国のノンフィクション文学登場の背景

ノンフィクションの源流は、1950年代から60年代にアメリカで生まれた作品とされる。例えばトルーマン・カポーティの『冷血』は、カンザス州の田舎で実際に起きた一家惨殺事件を題材にして、緻密な取材に基づいて、その全過程を描き出した作品であった。ただし『冷血』は報道ではなく、あくまでも文学作品であった。本来ならば知り得ない犯人の心境などを、三人称で描き出している。事実をもとにして、文学として構成することで、読者にリアルな感覚を与えるものが、アメリカのノンフィクションであったと言えるだろう。

中国のノンフィクションも、少なくとも出発点においては、同じく文学のジャンルであった。当時『人民文学』の編集長であった李敬沢によると、作者個人の観点や感情などを含んだ社会調査的な文章が念頭におかれていたようである。アメリカのカポーティやノーマン・メイラーに代表される事実をもとにした小説、いわば文学的とされる個人の視点や感情と、現実の出来事を融合して生みだされた作品が、中国においてノンフィクションとされた。

中国で事実を描くジャンルとしては、以前からルポルタージュがあった。80年代には文革中に隠されていた事実を暴くジャンルとして大きな役割を果たしたこともある。しかしノンフィクションは、ルポルタージュとは異なるとされる。おおまかに言うと、ルポルタージュは、事実をできるかぎり客観的に述べるジャーナリズムの文体とされる。それに対してノンフィクションには、作家個人の視点や感情が入っている。事実を述べるものの、あくまでも文学的に表現するのがノンフィクションであった。

中国のノンフィクションは、提起されるや広く注目され、さまざまな議論が巻き起こった。議論の中心になったのは、描かれているのがどこまでほんとうであるかであった。ノンフィクションは事実を強調するジャンルであり、また読者もほんとうのこととして受けとる。しかし作者の観点や感情が含まれた文章は、客観的とは言えず、作者の想像した世界ではないかという議論が起きた。ノンフィクションが描いているのはほんとうのことなのか、そもそもほんとうとは何なのかといった一連の議論が生まれた。

こうした問題が論じられた背景には、中国文学のコンテクストがあった。中国では長らく、リアリズム文学が主流とされてきた。文学は第一義的に、現実を描くことが求められた。もちろん、とくに近年ではリアリズム文学への挑戦も見られる。そこで焦点になったのは、描かれた現実がほんとうなのかという問いかけであった。現実を描くリアリズム文学が、ある種の定型となったとき、読者に作り物のようだと感じさせることがある。中国の文学では、リアリズムが主流であるという前提のもとで、どうすれば読者にリアルな感覚をもたらすことができるかをめぐって、多くの議論がなされてきた。

虚構を上回る現実を描き出す試み

そうした背景を考えたとき、中国のノンフィクションが描いているものがほんとうなのかが議論になるのは、ある種の必然であったことがわかる。議論の詳細に立ち入ることは避けるが、注目したいのは、『人民文学』編集長であった李敬沢の発言である。彼は、現実が虚構よりも面白いと言われていることを紹介し、それは現実が小説よりも虚構的ということではないかと問題提起をした。ここで彼が述べているのは、中国の現実がSF的な荒唐無稽なものになっているという現状認識かもしれない。ただ文学の問題として考えると、彼が提起したのは、現在よく知っている表現のスタイル、とくに旧来のリアリズムの手法では、中国の現実を十分に描き出せないことであろう。大きく変動する現実を前にして、中国の読者の心を動かし、ほんとうのことと感じさせるためには、新たな表現が必要である。そのための模索としてノンフィクションがあった。

李敬沢はさらに、読者がリアルと感じるかどうかの背景には、個々の人間の認識のあり方や世界観があると議論を続けた。したがって問題は、今の時代に合致した、個々の人間の感覚のあり方をいかにして理解し、把握するかになる。彼によると、ノンフィクションというジャンルは、人々に、自己と生活・現実・時代との関係を考えさせるもの、つまり人々の思考をうながすものだと言う。自分の精神や、目の前にあると現実を、固定されたものと考えず、両者の関係を考え直し、それによってほんとうの中国を表現する新たな形を模索すること、それがノンフィクションの目指す方向とされた。いわばノンフィクションは、狭い意味での文学の手法にとどまらず、認識や世界観といった次元に関わることになった。

初期の中国ノンフィクションの代表的な作品に、梁鴻著『中国在梁庄』(邦訳は『中国はここにある』みすず書房、2018年)がある。梁鴻が自分の故郷である農村に帰り、故郷の変わり果てた様子や、そこに生きる人々を描き出した著作である。この本で描かれる農村は、経済的に貧しいのみならず、文化的にも荒廃し、ほとんど希望の感じられない土地である。しかしこの本は、農村の荒廃を告発したものではなく、また都市の人間として農村を同情的に描いたルポルタージュでもない。梁鴻は、農村の人々が彼らなりの世界を築いていて、自分がその世界に入れないことに気づいた。都市の人間になってしまった梁鴻の世界観では、農村の世界を理解できないのではないか、自分がこれまで慣れ親しんでいる言葉では農村の人々を表現できないのではないか。梁鴻は自問自答をする。

この本のあとがきで梁鴻は、農村が貧しい土地であることを再確認したと述べつつ、その直後に次のように自問をした。「もしかしたら近代というのは、すべて良いものとは限らないのかもしれない。すべてがこの土地に適しているのではないかもしれない。中国の農村が、ヨーロッパのように、しだいに都市になり、風景となっていかなければならないわけでもあるまい?」(邦訳292ページ)。梁鴻は、近代化(中国語では現代化)を進めることが文化の発展であると考えている。その価値観を放棄したわけではない。しかしそれをそのまま中国の農村に当てはめても、有効でないのではないかと疑問を感じている。ほんとうの農村に入り、農村の人々を表現するためには、自分が当然だと思っている考え方を変えて、新たな表現を模索しなければならないと気づいたという。

中国のノンフィクションは、社会調査的な事実を描くものであるものの、事実を前にして作者がとまどい、揺れ動く様子をそのまま描き出すジャンルでもある。そして読者は、作者がとまどっている様子を追体験することによって、自分の認識を問い直し、目の前にある現実をどのように捉えたらよいのか、それをどのようにすれば表現できるのか、再び考えることになる。そのような思考の連鎖を呼び起こすテクストであったことが、中国においてノンフィクションが注目された理由であったと考えられる。

ほんとうの中国に近づくために

中国の現実が厳しい状況にあること、大きな問題を抱えていることは、おそらく中国にいる誰もが感じている。しかしそれを既成の枠組みで解釈し、解決法を示してみせても、あまり有効でないことが多い。少なくともそれでは足りないことに、中国の人たちは気づいている。中国のノンフィクションが示しているのは、中国の内部において、複雑な現実と格闘しながら、既成の言葉で片付けることなく、ほんとうの中国を表現するための模索がなされていることである。手持ちの言葉では語りきれない、ほんとうの中国にいかにして近づくか。彼らの模索は、中国の外で中国を見つめる私たちにも、大きな示唆を与えてくれるのではないだろうか。

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