Commentary
ほんとうの中国を表現するための模索
中国のノンフィクション文学
2010年代以降、中国文学において「ノンフィクション」と呼ばれるジャンルが注目されている。中国語で「非虚構」と書かれるこのジャンルは、文字通り、虚構でない創作を意味している。その範囲は広く、いわゆる散文的な文章や、近年ではAIが人類社会にもたらす影響を論じた文章なども含まれる。中国文学でノンフィクションが注目されるようになったのは、2010年に雑誌『人民文学』が「中篇小説」「短篇小説」「散文」「詩歌」などと並べて、「ノンフィクション」のコーナーを設けたことに始まる。このとき、従来のルポルタージュ(中国語では紀実文学)とは異なるジャンルとして、ノンフィクションが現れた。それ以来、さまざまな種類のノンフィクション作品が生まれ、ノンフィクションをめぐって多くの議論が起こった。そうした現象から何が見えてくるだろうか。
中国のノンフィクション文学登場の背景
ノンフィクションの源流は、1950年代から60年代にアメリカで生まれた作品とされる。例えばトルーマン・カポーティの『冷血』は、カンザス州の田舎で実際に起きた一家惨殺事件を題材にして、緻密な取材に基づいて、その全過程を描き出した作品であった。ただし『冷血』は報道ではなく、あくまでも文学作品であった。本来ならば知り得ない犯人の心境などを、三人称で描き出している。事実をもとにして、文学として構成することで、読者にリアルな感覚を与えるものが、アメリカのノンフィクションであったと言えるだろう。
中国のノンフィクションも、少なくとも出発点においては、同じく文学のジャンルであった。当時『人民文学』の編集長であった李敬沢によると、作者個人の観点や感情などを含んだ社会調査的な文章が念頭におかれていたようである。アメリカのカポーティやノーマン・メイラーに代表される事実をもとにした小説、いわば文学的とされる個人の視点や感情と、現実の出来事を融合して生みだされた作品が、中国においてノンフィクションとされた。
中国で事実を描くジャンルとしては、以前からルポルタージュがあった。80年代には文革中に隠されていた事実を暴くジャンルとして大きな役割を果たしたこともある。しかしノンフィクションは、ルポルタージュとは異なるとされる。おおまかに言うと、ルポルタージュは、事実をできるかぎり客観的に述べるジャーナリズムの文体とされる。それに対してノンフィクションには、作家個人の視点や感情が入っている。事実を述べるものの、あくまでも文学的に表現するのがノンフィクションであった。
中国のノンフィクションは、提起されるや広く注目され、さまざまな議論が巻き起こった。議論の中心になったのは、描かれているのがどこまでほんとうであるかであった。ノンフィクションは事実を強調するジャンルであり、また読者もほんとうのこととして受けとる。しかし作者の観点や感情が含まれた文章は、客観的とは言えず、作者の想像した世界ではないかという議論が起きた。ノンフィクションが描いているのはほんとうのことなのか、そもそもほんとうとは何なのかといった一連の議論が生まれた。
こうした問題が論じられた背景には、中国文学のコンテクストがあった。中国では長らく、リアリズム文学が主流とされてきた。文学は第一義的に、現実を描くことが求められた。もちろん、とくに近年ではリアリズム文学への挑戦も見られる。そこで焦点になったのは、描かれた現実がほんとうなのかという問いかけであった。現実を描くリアリズム文学が、ある種の定型となったとき、読者に作り物のようだと感じさせることがある。中国の文学では、リアリズムが主流であるという前提のもとで、どうすれば読者にリアルな感覚をもたらすことができるかをめぐって、多くの議論がなされてきた。
虚構を上回る現実を描き出す試み
そうした背景を考えたとき、中国のノンフィクションが描いているものがほんとうなのかが議論になるのは、ある種の必然であったことがわかる。議論の詳細に立ち入ることは避けるが、注目したいのは、『人民文学』編集長であった李敬沢の発言である。彼は、現実が虚構よりも面白いと言われていることを紹介し、それは現実が小説よりも虚構的ということではないかと問題提起をした。ここで彼が述べているのは、中国の現実がSF的な荒唐無稽なものになっているという現状認識かもしれない。ただ文学の問題として考えると、彼が提起したのは、現在よく知っている表現のスタイル、とくに旧来のリアリズムの手法では、中国の現実を十分に描き出せないことであろう。大きく変動する現実を前にして、中国の読者の心を動かし、ほんとうのことと感じさせるためには、新たな表現が必要である。そのための模索としてノンフィクションがあった。