Commentary
抗戦勝利80周年の国際会議と軍事パレード
異例ずくめのキャンペーンから見えた幅と奥行き
2025年9月2日、北京で抗戦勝利80周年を記念する国際学術会議が開かれ、翌日の3日には記念行事として軍事パレードが挙行された。その二つがセットになった集まりに自分は参加している。正確に言えば、会議では論文を用意して参加した出席者の一人として発言し、パレードは天安門の脇に設けられた仮設スタンドで参観した。この二つの行事を通じて垣間見えてくるものとは何か。
行ってみてわかった、党・学・軍共催の学術会議
このたび自分が出席した「紀念中国人民抗日戦争暨世界反法西斯戦争勝利80周年国際学術研討会」(訳せば「中国人民の抗日戦争及び世界反ファシスト戦争の勝利80周年を記念する国際学術シンポジウム」で、後述するように国際的な意味が盛り込まれた長いタイトルになっている)の最初の開催案内を2024年12月に近代史研究所から受けとった時は、中国語で「会議由中国社会科学院主辦,中国歴史研究院承辦。」と記され、中国社会科学院が中心になって会議を企画しているという印象を受けた。
中国社会科学院の傘下に中国歴史研究院があり、同研究院の傘下に近代史研究所があるわけだから、とくに不思議はない。だが実際に行ってみると、会議の主催団体としては、中共中央党史和文献研究院・中国社会科学院・中国人民解放軍軍事科学院の三つの機関がこの順序で並べられ、党・学・軍が共催する会議になっていた。これまでも党史研究機関(中央レベルから地方レベルまで様々な機関がある)や軍の教育研究機関に属する研究者が個人として学術的な会議に出席することはあったし、自分もそうした研究者に個々に出会う機会はあった。しかし自分にとって、今回のような形式の会議に参加するのは初めてであった。
参加者名簿に掲載された152人を整理すると、党史院系の研究者が約4割、社科院・大学系の研究者が約3割、軍科院系の研究者が約1割で、残る約2割が外国人という見当になる。政権政党と軍隊が学術機関と協力して国際的な学術シンポジウムを開くというのは、あまり耳にしたことがない。党の主導性を鮮明にする意味があったのかもしれない。あるいは今回の会議のテーマが党の政治方針と重なり、軍事パレード参観ともセットにされたため、特別なスタイルをとったということであろうか。もっとも、見方を変えれば、党史院系・軍科院系の研究者にとっては、大学関係の研究者や外国人研究者と、いわばおおっぴらに学術交流する場が開かれたことになり、それはそれで意味を持つことであったように思われる。自分に対し、直接、報告原稿のコピーを求めてきた党史院系の若手研究者もいた。
付言しておくと、所属は党史研究機関であっても、昨年死去された金冲及氏のように広い視野で近現代史研究に携わってきた研究者は存在する。今回の会議でも、りすぼん丸事件(注)を地元の文書史料を用いて世界大戦史の中で位置づけ解明した報告は、党史研究機関に属する研究者によるものであった。
注:日本郵船の貨物船で、第二次世界大戦中に日本陸軍に徴用された「りすぼん丸」が、香港から日本へイギリス兵捕虜を移送中に、アメリカ海軍の潜水艦に撃沈された事件。報告は中国の地元住民が捕虜救援に活躍した史実を紹介していた。
党の役割の強調と歴史研究全体の多様化
会議の基調報告的な発言は、やはり「延安」(中国共産党中央指導部が置かれた根拠地)を抗戦の中心に据えるものであり、抗戦勝利への中国共産党の貢献と連合国勝利への中国の貢献を強調するものであった。そして、第二次世界大戦終結後の国連中心の戦後秩序の重要性と平和擁護を主張するという方向付けがなされていた。むろん「語られたこと」ばかりではなく、「語られなかったこと」にも注意しておくべきであろう。基調発言で言及が極めて少なかったのは、国民政府・国民党を中心とした西南地域における抗戦である。2000年代から2010年代にかけ、「正面戦場」という言葉で西南抗戦が力を込めて語られた時期があったことを思うと、その変化は大きい(編集部:関連記事として、角崎信也「習近平政権下で「抗日戦争」研究はどう変わったのか」もご覧ください)。
しかし、全ての報告が基調発言の線をなぞっていたわけではない。各地の大学から参加した研究者の報告には、日韓の研究も視野に入れた「慰安婦」問題の研究史の全面的な総括(蘇智良)、小農経営に着目した華北の抗日根拠地史研究(李金錚)、南京事件に関する国際宣伝の分析(張連紅)、戦後日本の「太平洋戦争史観」の問題点の考察(高士華)など、広い視野を備えた充実した報告が少なくなかった。また、日本の華北分離工作から盧溝橋事件に至る過程の検討(徐勇)や南京事件に関する松井石根の主張への批判(程兆奇)は、日本の学界における一般的理解とは異なる部分があるとはいえ、日本側の史料と研究成果もよく読み込み、対話が十分可能な研究であったように思われる。こうした多様な研究成果は、改革開放が始まって以来の、中国歴史学の半世紀近い発展の到達点を反映したものであった。というよりも、むしろそうした多様化が進んでいるからこそ、基調報告的な発言が必要とされた、というのが実態に近かったかもしれない。党の役割の強調といういわば表層の公式的な議論だけに目を向けるのではなく、中国近現代史学界の幅と奥行きの広がりにも、よく留意しておきたい。
7月から8月にかけ、廬山(江西省)、杭州、南京をはじめ中国各地で開かれた抗戦勝利80周年に関わる会議では、自分が聞いたところによれば、地域史としての日中戦争史と呼ぶべき内容を含め、商品流通、交通、鉱山開発、金融、衛生など多方面にわたって、さらに多様かつ具体的な実証研究が報告されていた。開催地点からしても、西南抗戦に関わる報告が多くなるのも当然である。その中国には、戦争が終結した1945年の時点で300万人を超える日本の兵士と民間人がいた事実を忘れるわけにいかない。中国で膨大な研究の蓄積を通じて形成される、新たな歴史の記憶とどのように向きあっていくか、日本における日中戦争史研究にも新たな課題が浮かびあがってくる。
苦心の跡が窺える、外国からの出席者の顔ぶれ
約20ヵ国とされた外国からの出席者を名簿で拾ったところ(したがって必ずしも正確なものではない)、日6(在日中国人研究者と在中日本人研究者を含む)、韓4、米2、英2、仏・独・伊・希(ギリシア)各1、ロシアほか4、アフリカ・東南アジア・ラテンアメリカなど7であり、ロシアやアフリカ諸国の場合、国際政治の専門家や対外文化交流の担当者らが多かった。国際会議の形を整えようと苦心した跡が窺える。
日本からの出席者と報告題目を掲げておく。
- 鹿錫俊「独ソ開戦後の日米両国の対独戦略に関する蔣介石の誤った判断」
- 段瑞聡「戦後における昭和天皇の戦争への反省」
- 祁建民「中国の戦場における日本軍兵士の体験」
- 馬場公彦「全面戦争勃発前後における日本の世論形成」
- 石田隆至「戦後日本の平和運動と侵略に対する反省」
- 久保亨「戦時日本の中国調査と戦後の反省」
いずれもこれまでの論稿を基礎に、新たな議論を展開した内容であったように思われる。また韓国の白永瑞は、グローバルな視角から第二次世界大戦に関する中韓両国の共同の記憶を提示し、鄭在貞は朝鮮半島に敷設された鉄道が中国侵略に果たした役割を論じようとした。さらにフランスの D. C. Serfass は日本占領地区における伝記史料のデータベース作成を紹介し、アメリカの M. S. Muscolino は抗日戦争が環境に与えた二重の性格を考察していたようである。
以上の外国からの出席者の報告に関する紹介が「ようだ」となっているのには理由がある。残念なことに、外国からの出席者の報告は要旨集には掲載されていたとはいえ、論文集には全く収録されなかったからである。なぜかは不明である。
文芸の夕べと軍事パレード
9月2日に開催された会議の前日にあたる1日には人民大会堂で文芸の夕べを鑑賞し、会議終了後の3日は長安街の軍事パレードを参観した。いずれも強制だったわけではない。文芸の夕べは、「松花江上」――1936年につくられ民衆の間に広まった名曲である――の歌唱で東北難民を描く舞台から始まり、延安抗戦を軸に抗日戦争史を歌舞曲に仕立てたものであった。ところどころに第二次世界大戦における欧州の戦の様子も挟み込まれ、今回の会議の正式名称が「中国人民の抗日戦争及び世界反ファシスト戦争の勝利80周年を記念する国際学術シンポジウム」であったことを思い起こさせる内容になっていた。一方、西南抗戦がほとんど描かれていなかったのも、会議の基調発言と軌を一にしている。
軍事パレードの様子は全世界に中継された。天安門付近の参観者は14億人から選ばれた5万人。約2万8000人に1人ということになり、中央の政府機関の幹部クラスであっても、直接、現場で参観できたのは一部に限られていたようである。パレードの実施前後、北京の中心街は封鎖状態に置かれて人通りは絶え、前日の国際会議に出席した参観者は、ホテルを出る時から会場に着席するまでに、空港にあるようなチェックを都合4回受ける仕組みになっていた。会議を主催した党史院の関係者は、炎天下での参観となることにたいへん気を遣っており、参観者一人ひとりに対し飲料や帽子がセットになった小さな袋が配布された。医療関係者も配置され、足の不自由な高齢者の移動を助けるため、車椅子まで用意するという周到さであった。長時間の待機になるため、付近には大規模な仮設トイレ(これはむろん全参観者に対するものであったが)も設置されていた。
41年前、中国留学中の1984年に、国慶節軍事パレードの実況中継を、やはり中国に滞在していた故 石田浩氏(元関西大学経済学部教授)と二人で、上海のホテルの一室でずっと見ていた記憶がある。どこかのんびりした中に、溌剌(はつらつ)とした雰囲気も漂っていたように思う。天安門には趙紫陽と胡耀邦の二人が並び立って閲兵していた。あれから41年が経つ間に、いろいろなことがあった。今回のロシア・北朝鮮の首脳同席は、様々な意味で中国の現在を映し出す情景だったであろう。実況中継のため目の前で動き回るカメラマンが使っていたカメラは、どれもキャノンかソニーの製品だったので、日本の工業製品は、さらに間近でパレードを見ていたことになる。
再び会議のことなど
今回の会議準備の入念さは、異例ずくめであった。提出論文字数の厳格な指定、発言原稿の用意、さらには会議当日の発言者の事前指定から服装に関する注意まで、自分自身、これまでに経験したことがないものであった。抗戦勝利80周年の党・学・軍共同の行事になっていたことに加え、現在の共産党政権にとって、抗日戦争に関するキャンペーンが政治思想教育の要に位置づけられていることも、大きく影響したように思われる。その背後には、中国近現代史学界の様子の紹介でも触れたように、価値観の多様化が進む中、様々な社会問題もかかえる中国の現実がある。われわれとしては、表層のキャンペーンに注意するだけではなく、幅と奥行きを持った中国社会に対する認識を培っていくことが大切となる。