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Commentary

1980年代の中国はソ連・東欧をどう見ていたか
新刊紹介:『改革開放萌芽期の中国』(晃洋書房)

中村元哉
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授
社会・文化
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中国では「社会主義核心価値観」が至るところに掲げられている。「富強」「民主」「文明」「和諧」「自由」「平等」「公正」「法治」「愛国」「敬業」「誠信」「友善」の12の2字熟語からなる(筆者撮影/2019年、鄭州にて)
中国では「社会主義核心価値観」が至るところに掲げられている。「富強」「民主」「文明」「和諧」「自由」「平等」「公正」「法治」「愛国」「敬業」「誠信」「友善」の12の2字熟語からなる(筆者撮影/2019年、開封にて)

中国は、この数十年間、中国共産党体制の下で経済発展してきた。社会主義の看板を掲げたままの経済発展は、世界でも特異である。重視される価値観も、「富強・民主・文明・和諧・自由・平等・公正・法治・愛国・敬業・誠信・友善」という変わった組み合わせで構成されている。その善し悪しについては賛否両論あるわけだが、それらがどうであれ、現在の中国を形作った直接的な起源の1つが改革開放の初期の歴史であることは、さほど異論はないだろう。

この初期の歴史は、共産党の公式見解によれば、1978年に始まった。しかし、歴史研究者は、改革開放が実質的には1970年代初頭から1990年代初頭にかけて緩やかに準備され、その後に本格化した、と理解している。1970年代初頭は、中国が文化大革命の中で、日本を含む西側諸国との関係改善に踏み切った時期にあたる。また、1990年代初頭は、鄧小平が天安門事件で世界から孤立した中国を立て直すべく、改革開放に大号令をかけた時期にあたる。

それでは、この時期の中国は、どのように改革開放を準備したのだろうか。

ほとんど語られることがない「1980年代の政治改革」

従来、経済改革については、当事者の回想も含めて、活発な議論が展開されてきた。なぜなら、その歴史は、1990年代半ばから2010年代半ばまでの中国に高度経済成長をもたらした原動力だと考えられ、中国にとって「成功の物語」になりやすいからである。ところが、経済改革とセットだったはずの政治改革、とりわけソ連や旧・東欧諸国が社会主義の政治体制を続々と変化させていった時期に相当する1980年代の政治改革については、ほとんど語られることはない。現在の政治情勢につながる史料の公開は、どの国でも完全ではないため、致し方のないことかもしれない。

しかしながら、1980年代の出来事は、すでに半世紀も前のことである。史料面の制約が大きいとはいえ、研究者は、1980年代の政治改革の歴史についてもさまざまな工夫を凝らしながら、そろそろ歴史化しなければならないだろう。日本でも、知中派か親中派か反中派かにかかわらず、このプロセスの解明が現在の中国政治を深く知るうえで役に立つに違いないという直感にも似た社会的感覚がある以上、研究者は、この社会的要請に応えるべく、学術的基盤を少しずつ固めていかなければならない。

もちろん、「言うは易し、行うは難し」である。関連する史料が公開されていない現状では、中国政治史研究という正攻法の手法は採りづらい。どうしても、迂(う)回した方法が採用されることになる。その有力な方法の1つが、政治改革という本丸の周辺から関連情報を発信した知識人たちの思想動向を分析することである。周辺は周辺であって本丸ではないというのは真実だが、周辺の動向が本丸の動向と無縁だったわけでもない。

以上のような学術的背景の下、私は、研究プロジェクト「中国の改革開放萌芽期の再検討」(2021-2025年度科研A)を企画することにした。このプロジェクトは、中国近現代史研究者や現代中国研究者のみならず、ソ連史研究者・東欧史研究者・ヨーロッパ政治研究者からも助言と協力を得ている。

その理由は、本丸の周辺から読み取れる思想動向のうち、本丸に少しでも近づける「当時のソ連観や東欧観」を精査したかったからである。本丸にいた中枢の人たちは、同時代のソ連や東欧の政治情勢を注視しながら、どのような政治改革をどこまで実施できるのかを模索していたことから、その本丸に向かって、周辺にいた知識人がどのようなソ連観や東欧観を投げかけていたのかを知ることは有益であろう。

ソ連や旧・東欧諸国をどのように観察していたのか

この研究プロジェクトは、まだ道半ばである。それでも、暫定的とはいえ、以下のキーワードが浮上しつつある。これらのワードは、当時の中国をソ連や東欧諸国と比較した際に、中国でも重視されていたもの、もしくは、中国ではほとんど重視されていなかったものである。

党の権力、国家と自治、労働者の自主性、民主と法治(「民主と法制」ないしは「社会主義的法治国家」)、多党制、選挙制、幹部制(人材の育成と任用)、公開性

これらのキーワードに即して当時の思想状況を整理した中間成果が、このほど晃洋書房から刊行された『改革開放萌芽期の中国――ソ連観と東欧観から読み解く』である。

中村元哉編『改革開放萌芽期の中国――ソ連観と東欧観から読み解く』(晃洋書房、2023年)
中村元哉編『改革開放萌芽期の中国――ソ連観と東欧観から読み解く』(晃洋書房、2023年)

本書が明らかにしたことは、次のような事実である。

中国のソ連研究者は、集権化へと向かったスターリンの諸改革を否定し、その集権化の是正に取り組んだフルシチョフの改革を部分的に肯定しながらも不完全だった、とみなした。こうした大まかなソ連観を背景にして、中国の知識人たちは、中国がまず経済改革に取り組むにしても、中国共産党があらゆる領域を指導(「領導」)する硬直した政治体制を柔軟なものへと組み替えなければならず、そのためには党の権力を一定程度縮小せざるを得ない、と認識した。

ただし、政治体制改革の程度がソ連の改革、とりわけゴルバチョフの改革のように民主化を促す程度にまで至ってよいのかについては、意見を異にした。その際のポイントの1つは、ソ連の民主化の基盤になりうると考えられた、人民の政治参加によるソ連型自治とその改革の方向性をどう評価するのか、だった。

そして、中国の知識人たちは、中国に先行して、もしくは同時進行で諸改革に取り組んでいた東欧諸国の自治のあり方にも注目した。とりわけ、国家と社会の関係がソ連と異なっていたポーランドやユーゴスラヴィアの自治、つまり、自由労組「連帯」が取り締まられた後も官製労組で労働者の利益表出が継続されたポーランド型自治や、企業における労働者の自主管理を基本とするユーゴスラビア型自治には、強い関心を示した。しかし同時に、不思議なこともある。それは、自治と民主化の関係を論じる際に、自らの代表をどのように選出するのかという選挙制や、その先にある多党制について何らかの議論があってもよさそうだが、そうした議論は知識人のレベルでもあまり見られなかった、ということである。

より詳細な内容については本書を是非参照していただきたいが、本書をつうじて「1980年代の中国が当時のソ連や東欧諸国にどこまで共鳴し、どこから反発したのか」という一端はうかがい知れるのではないか、と期待している。

改革開放史研究という「新芽」はこれから成長する

私たち学者は、研究を深めれば深めるほど、新たな事実に遭遇する。その1つが、改革開放初期の1980年代を歴史化するにあたり、中華人民共和国期の社会主義化のプロセス(1950年代~1970年代)に加えて、中華民国期(1910年代~1940年代)の思想・学術・文学および政治体制史を射程に入れなければ、改革開放初期の歴史を完全にはひもとけない、ということである。

たとえば、1980年代の思想を牽引した一部の知識人は、民国期の学術の遺産を直接引き継いでいる。あるいは、人民共和国がソ連の直接選挙制をそのまま導入しなかったのは、民国期に何度か実践された直接選挙制に対する負のイメージが作用していたからかもしれない(ちなみに、男女普通選挙が制度化されたのは民国期の1936年、日中戦争の前年である)。

現代中国の起源としての改革開放期を歴史化する作業は、端緒についたばかりである。その改革開放史研究という「新芽」は、史料公開という「日光」を十分には浴びれない状態にあったとしても、これまでに蓄積されてきた豊かな現代中国研究の「土壌」から養分を吸収し、他地域との比較研究という確かな「農法」を組み合わせながら、懸命に上方へと伸びようとしている。その過程で、中華民国史へと至る「根」が頑強になればなるほど、「新芽」はより成長することだろう。現在の中国をわかりやすく説明する「花」が咲くまでにはまだ時間がかかるが、そのときまでもう少し待ってくだされば幸いである。

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