Commentary
香港史・香港人にとっての九龍城寨
清朝の「とりで」が映画の舞台になるまで

このところ、「九龍城砦」というワードを目にすることが増えた。映画「トワイライト・ウォーリアーズ 決戦!九龍城砦」(以下、「トワイライト」と略)が香港映画としては久しぶりにヒットし、その舞台である九龍城寨にも注目が集まっている。私も思わぬ形でその恩恵(?)にあずかっていて、2022年に出版した翻訳書『九龍城寨の歴史』(魯金著、みすず書房)が関連本として注目されたことで、なんとなく私も九龍城寨の専門家のようになってしまった。
この本を手に取っていただいた方ならお分かりだと思うが、前半は漢文引用満載でやたらと情報が細かく、後半になると戦後のいわゆる「暗黒」時代の城寨内部の様子から取り壊し決定にいたるまでのこと細かな描写が続く。翻訳しながら、こんなにマニアックな本を誰が読んでくれるのだろうと思ったりもした。しかも翻訳していたのは2018年から2021年、ちょうど香港情勢が激変していく最中だった。香港における「歴史」の意味づけも変わっていきそうな中、この本がどんな意味を持つことになるのか、多少の不安もあった。香港史の文脈の中でのこの本の位置づけや、この本自体が持っていた歴史学的に見た場合の問題点などについては「訳者あとがき」でかなり詳しく解説しており、その部分はオンライン上でも公開されているので、興味があればぜひお読みいただきたい。[1]
いずれにせよ私自身の予想を超えて、九龍城寨そのものを知るために今この本が読まれているのは、ありがたい限りである。以下、本文中の〔 〕内の数字は関連する『九龍城寨の歴史』のページ番号である。
「九龍寨城」「九龍城寨」「九龍城砦」「九龍城」「クーロン城(砦)」
海賊対策で築かれた「とりで」
あの場所がまがりなりにも「とりで」の役割を果たし始めるのは、今分かっている限りでは、明朝の戦船が駐留した16世紀末~17世紀初め頃である。清代に入り、明朝の遺臣鄭成功の抵抗を封じ込めるため、遷界令(沿海住民の強制移住政策。1661-83年)が敷かれ、一時期この一帯は無人になったが、18世紀末には「九龍台(烽火台)」が置かれ、兵士が駐留した〔p.11〕。その後、海賊対策のために1810年代に砲台が設置される。アヘン戦争(1840-42年)の際にも清軍が駐留し、初期には英軍との衝突も起きた。南京条約によって香港島がイギリスに割譲されると、その監視と周辺の治安維持のために役人が配置されるようになり、1846年頃、役所とそれを囲む城壁が建設された〔p.50〕。中国語で「城」は城壁、ないし城壁で囲まれた都市(役所のある町)を指す。つまり、城壁ができたことで、九龍は「城」を付して呼ばれるようになった。
ここで問題になってくるのは、その呼称である。城壁を築いた後の正式名称は「九龍寨城」である。[2] ただ古い文書ではごく簡単に「九龍」、あるいは「九龍城」という呼び方が多い。後者が英語のKowloon Cityの原語であろう。海賊に悩まされ続けたイギリスは、香港島のヴィクトリア港の治安向上と平地確保のため、対岸の九龍半島も手に入れたいと思うようになる。これは1860年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)の結果結ばれた北京条約で実現した。九龍半島の付け根に引かれた割譲地と清の領土を分ける境界線が、現在の界限街Boundary Streetである。この時点では「九龍寨城」は境界線の北側、つまり清朝側にあった。

植民地香港の拡大と返還
さらに1898年、界限街の北側の地域と周辺の離島を含む「新界」を租借し、植民地香港の領域を大幅に拡大させた。だが清朝は城壁に囲まれた「九龍寨城」の領域(およそ47,000㎡、ほぼ東京ドーム1個分)だけは引き続き清朝の管轄下に置くことをイギリスに認めさせる。駐留していた役人はすぐにイギリス軍が追い出してしまったが、法的にはこの領域は中国の管轄であったので、結果的にイギリス(本国)政府も中国の政権も香港政庁も手を出せない「三不管【サンブーグアン】」の地となった。日本占領期(1941年12月-1945年8月)に城壁は破壊され、戦後の混乱の中でこの一帯はスラム化する。さらに1970年代に入り、建築法適用外の九龍寨城の区域は高層ビルが密集する「城砦」と化した。魯金氏が『九龍城寨の歴史』を執筆した1980年代後半には「九龍城寨」や「九龍城砦」という呼び方が一般的だったようだ〔p.1〕。
一方、1960年代に香港の市街地に行政区が設定された際、九龍城寨を含む地域一帯が「九龍城」区となり、「九龍城」が指し示す領域が拡大した。そのため、魯金氏は元来の「九龍寨城」の領域のことを、この本の中では「九龍城寨」という呼称に統一している。今の香港で「九龍城寨」が通称になっているのは、魯金氏のこの本が、香港史の掘り起こしの中で繰り返し再版されてきたこととも無縁ではないかもしれない。
1984年12月の中英共同声明によって香港が中国に一括返還されることが決まり、九龍城寨の「三不管」状態も解消されることが確実になったことを受け、1987年1月、香港政庁は城寨の取り壊しを発表した。住民への補償問題なども取り沙汰されたが、1993年には解体が始まり、翌年、清代の役所の建物だけを残し、庭園として整備された「九龍寨城公園」へと姿を変える。このように時代によって呼び方がまちまちなのだが、私は魯金氏と現在の香港の慣例に敬意を表してこの場所を「九龍城寨」と呼ぶことにしているので、以下では全てそのように表記させていただきたい(映画の略称を「トワイライト」とカタカナにしたのは、混乱を避けるためのやむを得ない措置である)。
「クーロン」と「ガウロン」
ちなみに日本では「クーロン城(砦)」という呼び方も人口に膾炙(かいしゃ)している。漢字で「九龍」と表記し「きゅうりゅう」と読ませるのが一般的なのはそうとして、これを「クーロン」と読む慣習も意外と起源は古いようで、19世紀末にはすでに記録がある。[3]英語の発音により近い「カウルン」「カオルーン」というルビを振る例も20世紀前半には確認できる。[4]ただ、戦後の「魔窟」的な九龍城寨のイメージと絡ませながらあの場所を「クーロン城(砦)」と呼ぶのが一般化したのは、返還が決まり香港に注目が集まった1980年代末あたりからのようだ。それから約40年を経て、広東語の読みに則した「ガウロン」もかなり市民権を得た。「クーロン」は少し時代がかった響きになってきたのかもしれない。
逃亡者の街という避難所
移動する人々が織りなす香港社会
植民地としての香港の歴史は、絶えず流動する人々によって形作られてきた。そもそも香港島は天然の良港であったがゆえに、イギリスが貿易港として開発した植民都市である。もちろんイギリス領になるずっと前にやってきて農村や漁村に暮らした人々も一定数いたし、「蛋家【タンカー】」と呼ばれる水上居民も香港一帯の沿海で暮らしてきた。だが、海岸を埋め立てなければ道も引けなかったこの港は、最初から大量の華人労働者の流入を必要とした。貿易が本格化すると港湾労働者や商人たちも増加する。他方で、ゴールドラッシュで沸き立つカリフォルニアやオーストラリア、あるいは東南アジアや南米に向かう移民の多くも香港経由で旅立った。
このようにめまぐるしく人が行き交う街、香港にはもう一つの特徴もあった。それは逃亡者の街、という側面である。中国大陸で何か起こると(太平天国の乱であれ、辛亥革命であれ、日中戦争であれ)、関係者から一般庶民にいたるまで、逃げたい人々は香港を目指した。日本占領期には逆の流れが起きたが、戦後、再び香港に大量の人々が流れ込むことになる。中国本土での国共内戦とそれに続く中華人民共和国政権下での長期にわたる政治的混乱がその原因だった。日本占領期末期には60万人にまで落ち込んでいた人口は、1947年の年末には180万近くに達し、1950年には220万、1961年には313万と激増していく。
香港政庁は華人住民の人口管理を全くしてこなかったので、中国本土と香港の間は長らく出入り自由だった。だが、1949年の中華人民共和国成立を機に香港政庁は出入境管理と香港住民への身分証発行を開始する。入境制限をかいくぐって密入境する人も跡を絶たず、命がけで海を泳いでやってくる人々も多かった。香港政庁も香港にたどり着いた人々には概ね寛大で、「違法入境」であっても身分証を発行した。人口の急増は深刻な住宅、労働問題を生むが、彼らがもたらした労働力が戦後の香港の高度経済成長を支えることにもなった。
この時期に香港に逃げ込んだ人々は、共産党との内戦に敗れた国民党関係者ももちろん多かったが、戦火を避けてきた共産党支持者、そして黒社会(ヤクザ)も少なくなかった。国共対立に黒社会の組織(三合会)も関与して暴動になったこともある(1956年の九龍暴動)。
九龍城寨は最後の「とりで」
そんな「逃げ場」としての香港の中でも特に九龍城寨は特殊な性格を持った。なぜなら「三不管」の地では、どれだけ建物を密集させても(その結果、どんなに衛生環境が悪くても)取り締まられることはない。香港の医師免許を持たない大陸の医師や歯科医もここなら「開業」(勝手に開業)できた。そしてもちろん、黒社会も賭博、ポルノ、麻薬で荒稼ぎできた。腐敗した香港警察との暗黙の了解もあり、1950年代から60年代にかけての九龍城寨では特に黒社会が跋扈(ばっこ)したという〔pp.162-177〕。ただ、その時代ですら、九龍城寨全体が黒社会に支配されていたわけではなかった。城寨の東側は黒社会の牙城だったが、西側には黒社会と縁のない一般の人々が暮らし、プラスチック工場や織物工場などの小規模工場も稼動していた。城寨の住人も香港の身分証を得ることができ、子どもたちは城寨の外の学校に通い、そしてお金が貯(た)まれば城寨の外に出て行った〔pp.178-179〕。あらゆる人にとって、九龍城寨は最後の(あるいは最初の)避難所となり得る場所だったのである。
1967年、労資問題に端を発した運動が、大陸の文化大革命の影響を受けて市民を巻き込むテロにまで拡大した暴動事件が起こる(六七暴動)。これをきっかけに、すでに様々な社会矛盾が露呈していた香港では改革が進み、1970年代には住宅や社会保障、教育などの環境が大幅に改善した。官僚や警察の腐敗にもメスが入り、汚職を取り締まる廉政公署が設置された。九龍城寨を取り巻く環境も変化し、黒社会の影響力は急速に低下した。黒社会がはびこった城寨の東側も徐々に健全化したと言われる。他方で建物は高層化し、ビルがひしめき合う異様な外見を呈していくことになる。
「トワイライト」の舞台裏
「トワイライト」に描かれる九龍城寨の様子は、そんな当時の実態をかなり忠実に反映している。ちなみに映画の中で龍捲風【ロンギュンフォン】が会長を務めていた「街坊互助委員会」のモデルは、1963年に成立した住民の自助組織「九龍城寨街坊福利事業促進会」である。当初は、香港政府が発表した城寨の隣接道路取り壊し計画に反対するために結成された組織だったが、取り壊し延期を勝ち取ったあとは九龍城寨内で道路の補修や街灯の設置、清掃サービスなどを提供した。[5]お上の統制などなくとも、自ら秩序を作り出していく香港の人々の強さが現れている。
また、「トワイライト」の主人公陳洛軍【チャンロッグヮン】はベトナムからの密入境者として描かれている。ベトナム戦争終結後の混乱の中、多くの華僑が迫害を恐れてベトナムから逃れたが、1979年の国連での取り決めにより、香港は彼らボートピープルの第一収容港(第三国への正式な亡命の前の一時滞在地)となった。映画の舞台である1984-85年当時、すでに大陸からの密入境者も強制送還される時代になっていたが、ボートピープルたちも収容所に隔離する政策が取られていた。陳洛軍が香港に居続けるためには、(たとえ偽であっても)香港の身分証を手に入れるしかなかったのである。
香港人と九龍城寨
「トワイライト」は、誤解を恐れずに言えば、九龍城寨という「家」(実は、そこで共に暮らす「家族」)を見出した青年が、それを守ろうとする物語である。そして、流れ着いた場所がやがて「我が家」になるというモチーフは、香港人の物語そのものでもある。
元来、香港の人々はみな、よそ者だった。ルーツも話す言葉もばらばらである。植民地初期の時代から、様々な事情で香港に来た/住む人々はお互いのことをおもに言語の違いで区別した。地元の広東語を話す「本地」、客家語を話す「客家【ハッカ】」、そして潮州や汕頭など福建に近い広東省東部から来た泉漳語(福佬話)を話す「鶴佬【ホクロー】(福佬)」が代表的である(水上居民の言語は広東語系、福佬話系両方あったとされる)。植民地に過ぎない香港で、「国民教育」は行われない。だから「国語」もない。のちに官立学校はできるものの、教育を中心的に担ったのはキリスト教の宣教師だった。客家を布教対象とし、礼拝や学校教育を客家語で行った団体もある。
戦後になっても、人々の多様さは変わらなかった。日本占領期終了後に香港に逃げ込んできた人々の中には上海など遠隔地からの移住者も一定数いたが、多くは広東省からだった。圧倒的多数は広東語(の中でも特に広州話/広府話)話者であったが、広東省東部から来た泉漳語系(現在の香港では「潮州話」とされる場合が多い)話者も比較的多く、香港各地にそのコミュニティが残っている。現在の九龍寨城公園の南側の一帯も、潮州系の人々、そして潮州から香港経由でタイに移民した人々が多い(つまり、潮州料理とタイ料理がおいしい)一角として知られている。
また、「トワイライト」のクライマックスで描かれたきらびやかな盂蘭盆会(うらぼんえ)の祭りは、戦後、潮州系のコミュニティで行われるようになった盂蘭勝会をモチーフにしている。王九【ウォンガウ】たちのもともとの地盤の果欄【フルーツマーケット】、そして虎哥【タイガーゴー】の地盤の廟街があるエリアでは毎年旧暦7月15日に合わせて「油麻地旺角区四方街潮僑街坊盂蘭勝会」が開かれている。この油麻地の沿岸は1980年代に大規模な埋め立てが行われたが、それ以前は水上居民が多数暮らすエリアでもあった。映画の終盤で信一【ソンヤッ】たちがいたのは、このあたりだったのではないかと想像している。
香港という「家」への感慨
香港政庁は、教育はもちろん華人住民の福祉にも無関心だった。植民地初期に慈善事業を担ったのも教会である。その後、英語を身につけた外国商社の買弁(仲介人)やクリスチャンを中心に華人エリート層が形成された。1870年代には彼らも東華医院(後に二つ病院を増やし、東華三院と称された)を設立し、その理事会は華人社会をまとめ上げる要となっていった。戦後の混乱期に難民同様の移住者に手を差し伸べたのも、こうした香港在来の民間組織や、中国本土を追放されて香港に避難してきたキリスト教団体だった。今でもキリスト教をはじめとする宗教諸団体や東華三院は香港の教育と福祉の重要な担い手である。香港社会は民間の相互扶助によって支えられてきたのである。
「獅子山の下」という歌がある。九龍半島の付け根にある獅子山は、山頂が横向きに座ったライオンの姿に見えることからその名がついた。獅子山のふもとの一帯には戦後、大挙して押し寄せた難民同様の人々のバラック小屋が建ち並び、後には公営住宅へと変わっていった。貧しいながらも懸命に働きながら家庭を持ち、小さな成功と幸せをつかんだ、というこの時代の「記憶」を香港の多くの人々は共有している。「僕らは獅子山の下で助け合い、共に頑張ってきた」と歌う「獅子山の下」は、もともとはドラマの主題歌だったが、徐々に香港人のテーマソングのようになっていった。この歌もそうだが、広東語の歌詞で歌われるポップソング(カントポップ)が1970年代から流行し始め、香港映画が世界的にブームになり、香港は独自の文化を獲得していった。[6]そうした中で、香港の人々は「香港人」というアイデンティティを持つようになる。広東語はこのアイデンティティを支える重要な要素になっていった。[7]そして獅子山は「香港人」を象徴する記号になった。「トワイライト」は、獅子山のふもとで鈍い光を放つ九龍城寨の姿を映し出すところから始まり、エンドロールでは食品工場や織物工場、靴や造花、おもちゃを作る工場などで働く人々の姿が流れる。この映画で九龍城寨が象徴するのは、香港人にとっての香港という「家」なのだ。
2019、2020年を経て、香港は変わった。今の香港は、逃げ込む場というよりは逃げ出す場になったように見える。中から、外から、香港人はいろいろな思いで「家」を見つめている。消えゆく運命の九龍城寨を文字で記録し、後世に残した魯金氏も、それをスクリーンによみがえらせた「トワイライト」のスタッフたちも、同じ「家」への感慨を共有していると、私は思っている。
[1] 倉田明子「『香港史ブーム』と激変する香港」(「訳者あとがき」より)、WEBみすず、https://magazine.msz.co.jp/new/09516/https://magazine.msz.co.jp/new/09516/
[2] 九龍城寨の解体時に発見された南門跡から、「九龍寨城」と刻まれた石の扁額(へんがく)が出土している。この扁額は現在の九龍寨城公園の一角にある南門遺構(*写真)で見ることができる。
[3] 国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている明治19(1886)年10月13日の『官報』の「外報」で、上海領事館からの報告文の中に「英領クーロン」という語が見える。筆者はこの情報を下記Xポストで知った。https://x.com/bognaka/status/1888961210319823112?s=46
[4] 一例を挙げれば、やはり国会図書館デジタルコレクションで公開されている外務省通商局『香港事情』(啓成社、1917年)5頁では九龍城に「カウルンシチー」とルビが振られている。
[5] SEE思網路『追憶龍城蛻變』、2011年 https://project-see.net/?cat=51&lang=en
[6] カントポップについては、小栗宏太氏のnote「一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論」(https://note.com/sasaleut/m/mbcb67bc35f75)をはじめとする記事がとても詳しい。広東語ポップスの特徴を解説した、同「広東語ポップスにおける声調とメロディの関係」WEB東方、2025年2月14日(https://www.toho-shoten.co.jp/web_toho/?p=6685)も入口としておすすめだ。
[7] 飯田真紀『広東語の世界:香港、華南が生んだグローバル中国語』(中公新書、2024)は、広東語とは何かを理解することを通して香港のことも知ることができる良書である。中央公論新社の本書特設ページでは本書に登場する広東語例文の音声を聴くことができる。https://www.chuko.co.jp/special/kantongo/