Commentary
香港史・香港人にとっての九龍城寨
清朝の「とりで」が映画の舞台になるまで

香港という「家」への感慨
香港政庁は、教育はもちろん華人住民の福祉にも無関心だった。植民地初期に慈善事業を担ったのも教会である。その後、英語を身につけた外国商社の買弁(仲介人)やクリスチャンを中心に華人エリート層が形成された。1870年代には彼らも東華医院(後に二つ病院を増やし、東華三院と称された)を設立し、その理事会は華人社会をまとめ上げる要となっていった。戦後の混乱期に難民同様の移住者に手を差し伸べたのも、こうした香港在来の民間組織や、中国本土を追放されて香港に避難してきたキリスト教団体だった。今でもキリスト教をはじめとする宗教諸団体や東華三院は香港の教育と福祉の重要な担い手である。香港社会は民間の相互扶助によって支えられてきたのである。
「獅子山の下」という歌がある。九龍半島の付け根にある獅子山は、山頂が横向きに座ったライオンの姿に見えることからその名がついた。獅子山のふもとの一帯には戦後、大挙して押し寄せた難民同様の人々のバラック小屋が建ち並び、後には公営住宅へと変わっていった。貧しいながらも懸命に働きながら家庭を持ち、小さな成功と幸せをつかんだ、というこの時代の「記憶」を香港の多くの人々は共有している。「僕らは獅子山の下で助け合い、共に頑張ってきた」と歌う「獅子山の下」は、もともとはドラマの主題歌だったが、徐々に香港人のテーマソングのようになっていった。この歌もそうだが、広東語の歌詞で歌われるポップソング(カントポップ)が1970年代から流行し始め、香港映画が世界的にブームになり、香港は独自の文化を獲得していった。[6]そうした中で、香港の人々は「香港人」というアイデンティティを持つようになる。広東語はこのアイデンティティを支える重要な要素になっていった。[7]そして獅子山は「香港人」を象徴する記号になった。「トワイライト」は、獅子山のふもとで鈍い光を放つ九龍城寨の姿を映し出すところから始まり、エンドロールでは食品工場や織物工場、靴や造花、おもちゃを作る工場などで働く人々の姿が流れる。この映画で九龍城寨が象徴するのは、香港人にとっての香港という「家」なのだ。
2019、2020年を経て、香港は変わった。今の香港は、逃げ込む場というよりは逃げ出す場になったように見える。中から、外から、香港人はいろいろな思いで「家」を見つめている。消えゆく運命の九龍城寨を文字で記録し、後世に残した魯金氏も、それをスクリーンによみがえらせた「トワイライト」のスタッフたちも、同じ「家」への感慨を共有していると、私は思っている。
[1] 倉田明子「『香港史ブーム』と激変する香港」(「訳者あとがき」より)、WEBみすず、https://magazine.msz.co.jp/new/09516/https://magazine.msz.co.jp/new/09516/
[2] 九龍城寨の解体時に発見された南門跡から、「九龍寨城」と刻まれた石の扁額(へんがく)が出土している。この扁額は現在の九龍寨城公園の一角にある南門遺構(*写真)で見ることができる。
[3] 国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている明治19(1886)年10月13日の『官報』の「外報」で、上海領事館からの報告文の中に「英領クーロン」という語が見える。筆者はこの情報を下記Xポストで知った。https://x.com/bognaka/status/1888961210319823112?s=46
[4] 一例を挙げれば、やはり国会図書館デジタルコレクションで公開されている外務省通商局『香港事情』(啓成社、1917年)5頁では九龍城に「カウルンシチー」とルビが振られている。
[5] SEE思網路『追憶龍城蛻變』、2011年 https://project-see.net/?cat=51&lang=en
[6] カントポップについては、小栗宏太氏のnote「一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論」(https://note.com/sasaleut/m/mbcb67bc35f75)をはじめとする記事がとても詳しい。広東語ポップスの特徴を解説した、同「広東語ポップスにおける声調とメロディの関係」WEB東方、2025年2月14日(https://www.toho-shoten.co.jp/web_toho/?p=6685)も入口としておすすめだ。
[7] 飯田真紀『広東語の世界:香港、華南が生んだグローバル中国語』(中公新書、2024)は、広東語とは何かを理解することを通して香港のことも知ることができる良書である。中央公論新社の本書特設ページでは本書に登場する広東語例文の音声を聴くことができる。https://www.chuko.co.jp/special/kantongo/