Commentary
香港史・香港人にとっての九龍城寨
清朝の「とりで」が映画の舞台になるまで

1967年、労資問題に端を発した運動が、大陸の文化大革命の影響を受けて市民を巻き込むテロにまで拡大した暴動事件が起こる(六七暴動)。これをきっかけに、すでに様々な社会矛盾が露呈していた香港では改革が進み、1970年代には住宅や社会保障、教育などの環境が大幅に改善した。官僚や警察の腐敗にもメスが入り、汚職を取り締まる廉政公署が設置された。九龍城寨を取り巻く環境も変化し、黒社会の影響力は急速に低下した。黒社会がはびこった城寨の東側も徐々に健全化したと言われる。他方で建物は高層化し、ビルがひしめき合う異様な外見を呈していくことになる。
「トワイライト」の舞台裏
「トワイライト」に描かれる九龍城寨の様子は、そんな当時の実態をかなり忠実に反映している。ちなみに映画の中で龍捲風【ロンギュンフォン】が会長を務めていた「街坊互助委員会」のモデルは、1963年に成立した住民の自助組織「九龍城寨街坊福利事業促進会」である。当初は、香港政府が発表した城寨の隣接道路取り壊し計画に反対するために結成された組織だったが、取り壊し延期を勝ち取ったあとは九龍城寨内で道路の補修や街灯の設置、清掃サービスなどを提供した。[5]お上の統制などなくとも、自ら秩序を作り出していく香港の人々の強さが現れている。
また、「トワイライト」の主人公陳洛軍【チャンロッグヮン】はベトナムからの密入境者として描かれている。ベトナム戦争終結後の混乱の中、多くの華僑が迫害を恐れてベトナムから逃れたが、1979年の国連での取り決めにより、香港は彼らボートピープルの第一収容港(第三国への正式な亡命の前の一時滞在地)となった。映画の舞台である1984-85年当時、すでに大陸からの密入境者も強制送還される時代になっていたが、ボートピープルたちも収容所に隔離する政策が取られていた。陳洛軍が香港に居続けるためには、(たとえ偽であっても)香港の身分証を手に入れるしかなかったのである。
香港人と九龍城寨
「トワイライト」は、誤解を恐れずに言えば、九龍城寨という「家」(実は、そこで共に暮らす「家族」)を見出した青年が、それを守ろうとする物語である。そして、流れ着いた場所がやがて「我が家」になるというモチーフは、香港人の物語そのものでもある。
元来、香港の人々はみな、よそ者だった。ルーツも話す言葉もばらばらである。植民地初期の時代から、様々な事情で香港に来た/住む人々はお互いのことをおもに言語の違いで区別した。地元の広東語を話す「本地」、客家語を話す「客家【ハッカ】」、そして潮州や汕頭など福建に近い広東省東部から来た泉漳語(福佬話)を話す「鶴佬【ホクロー】(福佬)」が代表的である(水上居民の言語は広東語系、福佬話系両方あったとされる)。植民地に過ぎない香港で、「国民教育」は行われない。だから「国語」もない。のちに官立学校はできるものの、教育を中心的に担ったのはキリスト教の宣教師だった。客家を布教対象とし、礼拝や学校教育を客家語で行った団体もある。
戦後になっても、人々の多様さは変わらなかった。日本占領期終了後に香港に逃げ込んできた人々の中には上海など遠隔地からの移住者も一定数いたが、多くは広東省からだった。圧倒的多数は広東語(の中でも特に広州話/広府話)話者であったが、広東省東部から来た泉漳語系(現在の香港では「潮州話」とされる場合が多い)話者も比較的多く、香港各地にそのコミュニティが残っている。現在の九龍寨城公園の南側の一帯も、潮州系の人々、そして潮州から香港経由でタイに移民した人々が多い(つまり、潮州料理とタイ料理がおいしい)一角として知られている。
また、「トワイライト」のクライマックスで描かれたきらびやかな盂蘭盆会(うらぼんえ)の祭りは、戦後、潮州系のコミュニティで行われるようになった盂蘭勝会をモチーフにしている。王九【ウォンガウ】たちのもともとの地盤の果欄【フルーツマーケット】、そして虎哥【タイガーゴー】の地盤の廟街があるエリアでは毎年旧暦7月15日に合わせて「油麻地旺角区四方街潮僑街坊盂蘭勝会」が開かれている。この油麻地の沿岸は1980年代に大規模な埋め立てが行われたが、それ以前は水上居民が多数暮らすエリアでもあった。映画の終盤で信一【ソンヤッ】たちがいたのは、このあたりだったのではないかと想像している。