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Commentary

香港史・香港人にとっての九龍城寨
清朝の「とりで」が映画の舞台になるまで

倉田明子
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授
社会・文化
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消えゆく運命の九龍城寨を文字で記録し、後世に残した魯金氏も、それをスクリーンによみがえらせた「トワイライト」のスタッフたちも、同じ「家」への感慨を共有している。写真は九龍の黄大仙から見上げる獅子山。2019年(筆者撮影)
消えゆく運命の九龍城寨を文字で記録し、後世に残した魯金氏も、それをスクリーンによみがえらせた「トワイライト」のスタッフたちも、同じ「家」への感慨を共有している。写真は九龍の黄大仙から見上げる獅子山。2019年(筆者撮影)

逃亡者の街という避難所

移動する人々が織りなす香港社会

植民地としての香港の歴史は、絶えず流動する人々によって形作られてきた。そもそも香港島は天然の良港であったがゆえに、イギリスが貿易港として開発した植民都市である。もちろんイギリス領になるずっと前にやってきて農村や漁村に暮らした人々も一定数いたし、「蛋家【タンカー】」と呼ばれる水上居民も香港一帯の沿海で暮らしてきた。だが、海岸を埋め立てなければ道も引けなかったこの港は、最初から大量の華人労働者の流入を必要とした。貿易が本格化すると港湾労働者や商人たちも増加する。他方で、ゴールドラッシュで沸き立つカリフォルニアやオーストラリア、あるいは東南アジアや南米に向かう移民の多くも香港経由で旅立った。

このようにめまぐるしく人が行き交う街、香港にはもう一つの特徴もあった。それは逃亡者の街、という側面である。中国大陸で何か起こると(太平天国の乱であれ、辛亥革命であれ、日中戦争であれ)、関係者から一般庶民にいたるまで、逃げたい人々は香港を目指した。日本占領期には逆の流れが起きたが、戦後、再び香港に大量の人々が流れ込むことになる。中国本土での国共内戦とそれに続く中華人民共和国政権下での長期にわたる政治的混乱がその原因だった。日本占領期末期には60万人にまで落ち込んでいた人口は、1947年の年末には180万近くに達し、1950年には220万、1961年には313万と激増していく。

香港政庁は華人住民の人口管理を全くしてこなかったので、中国本土と香港の間は長らく出入り自由だった。だが、1949年の中華人民共和国成立を機に香港政庁は出入境管理と香港住民への身分証発行を開始する。入境制限をかいくぐって密入境する人も跡を絶たず、命がけで海を泳いでやってくる人々も多かった。香港政庁も香港にたどり着いた人々には概ね寛大で、「違法入境」であっても身分証を発行した。人口の急増は深刻な住宅、労働問題を生むが、彼らがもたらした労働力が戦後の香港の高度経済成長を支えることにもなった。

この時期に香港に逃げ込んだ人々は、共産党との内戦に敗れた国民党関係者ももちろん多かったが、戦火を避けてきた共産党支持者、そして黒社会(ヤクザ)も少なくなかった。国共対立に黒社会の組織(三合会)も関与して暴動になったこともある(1956年の九龍暴動)。

九龍城寨は最後の「とりで」

そんな「逃げ場」としての香港の中でも特に九龍城寨は特殊な性格を持った。なぜなら「三不管」の地では、どれだけ建物を密集させても(その結果、どんなに衛生環境が悪くても)取り締まられることはない。香港の医師免許を持たない大陸の医師や歯科医もここなら「開業」(勝手に開業)できた。そしてもちろん、黒社会も賭博、ポルノ、麻薬で荒稼ぎできた。腐敗した香港警察との暗黙の了解もあり、1950年代から60年代にかけての九龍城寨では特に黒社会が跋扈(ばっこ)したという〔pp.162-177〕。ただ、その時代ですら、九龍城寨全体が黒社会に支配されていたわけではなかった。城寨の東側は黒社会の牙城だったが、西側には黒社会と縁のない一般の人々が暮らし、プラスチック工場や織物工場などの小規模工場も稼動していた。城寨の住人も香港の身分証を得ることができ、子どもたちは城寨の外の学校に通い、そしてお金が貯(た)まれば城寨の外に出て行った〔pp.178-179〕。あらゆる人にとって、九龍城寨は最後の(あるいは最初の)避難所となり得る場所だったのである。

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