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Commentary

香港史・香港人にとっての九龍城寨
清朝の「とりで」が映画の舞台になるまで

倉田明子
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授
社会・文化
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消えゆく運命の九龍城寨を文字で記録し、後世に残した魯金氏も、それをスクリーンによみがえらせた「トワイライト」のスタッフたちも、同じ「家」への感慨を共有している。写真は九龍の黄大仙から見上げる獅子山。2019年(筆者撮影)
消えゆく運命の九龍城寨を文字で記録し、後世に残した魯金氏も、それをスクリーンによみがえらせた「トワイライト」のスタッフたちも、同じ「家」への感慨を共有している。写真は九龍の黄大仙から見上げる獅子山。2019年(筆者撮影)

植民地香港の拡大と返還

さらに1898年、界限街の北側の地域と周辺の離島を含む「新界」を租借し、植民地香港の領域を大幅に拡大させた。だが清朝は城壁に囲まれた「九龍寨城」の領域(およそ47,000㎡、ほぼ東京ドーム1個分)だけは引き続き清朝の管轄下に置くことをイギリスに認めさせる。駐留していた役人はすぐにイギリス軍が追い出してしまったが、法的にはこの領域は中国の管轄であったので、結果的にイギリス(本国)政府も中国の政権も香港政庁も手を出せない「三不管【サンブーグアン】」の地となった。日本占領期(1941年12月-1945年8月)に城壁は破壊され、戦後の混乱の中でこの一帯はスラム化する。さらに1970年代に入り、建築法適用外の九龍寨城の区域は高層ビルが密集する「城砦」と化した。魯金氏が『九龍城寨の歴史』を執筆した1980年代後半には「九龍城寨」や「九龍城砦」という呼び方が一般的だったようだ〔p.1〕。

一方、1960年代に香港の市街地に行政区が設定された際、九龍城寨を含む地域一帯が「九龍城」区となり、「九龍城」が指し示す領域が拡大した。そのため、魯金氏は元来の「九龍寨城」の領域のことを、この本の中では「九龍城寨」という呼称に統一している。今の香港で「九龍城寨」が通称になっているのは、魯金氏のこの本が、香港史の掘り起こしの中で繰り返し再版されてきたこととも無縁ではないかもしれない。

1984年12月の中英共同声明によって香港が中国に一括返還されることが決まり、九龍城寨の「三不管」状態も解消されることが確実になったことを受け、1987年1月、香港政庁は城寨の取り壊しを発表した。住民への補償問題なども取り沙汰されたが、1993年には解体が始まり、翌年、清代の役所の建物だけを残し、庭園として整備された「九龍寨城公園」へと姿を変える。このように時代によって呼び方がまちまちなのだが、私は魯金氏と現在の香港の慣例に敬意を表してこの場所を「九龍城寨」と呼ぶことにしているので、以下では全てそのように表記させていただきたい(映画の略称を「トワイライト」とカタカナにしたのは、混乱を避けるためのやむを得ない措置である)。

「クーロン」と「ガウロン」

ちなみに日本では「クーロン城(砦)」という呼び方も人口に膾炙(かいしゃ)している。漢字で「九龍」と表記し「きゅうりゅう」と読ませるのが一般的なのはそうとして、これを「クーロン」と読む慣習も意外と起源は古いようで、19世紀末にはすでに記録がある。[3]英語の発音により近い「カウルン」「カオルーン」というルビを振る例も20世紀前半には確認できる。[4]ただ、戦後の「魔窟」的な九龍城寨のイメージと絡ませながらあの場所を「クーロン城(砦)」と呼ぶのが一般化したのは、返還が決まり香港に注目が集まった1980年代末あたりからのようだ。それから約40年を経て、広東語の読みに則した「ガウロン」もかなり市民権を得た。「クーロン」は少し時代がかった響きになってきたのかもしれない。

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