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Commentary

萎縮する言論空間にどう抗うか
台湾の「亜亜事件」と龍応台の論考をめぐる論争から考える

阿古智子
東京大学大学院総合文化研究科教授
社会・文化
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国民党軍と共産党軍による激しい戦闘の舞台となった金門島。敵の上陸を防ぐ為に海岸沿いに立てられた杭が今も残されており、異様な光景が広がっている。約2km向こうの対岸に見えるのは中国の廈門(アモイ)。2025年2月撮影(著者提供)
国民党軍と共産党軍による激しい戦闘の舞台となった金門島。敵の上陸を防ぐ為に海岸沿いに立てられた杭が今も残されており、異様な光景が広がっている。約2km向こうの対岸に見えるのは中国の廈門(アモイ)。2025年2月撮影(著者提供)

フランスの政治思想家・トクヴィルのいう「多数派の専制」の危険性の回避、ナチスの迫害を逃れたユダヤ系オーストリア人の哲学者・カール・ポパーが『開かれた社会とその敵』で述べた「寛容のパラドクス」(不寛容な集団への無条件の寛容が全体主義を許し、寛容な社会自体を破壊するため、民主社会は自己防衛として寛容否定の思想に制限を設ける必要がある)などを引き、民主主義破壊を防ぐためにホロコースト否定やナチス賛美などの言論に刑事罰を課す根拠となったことを、平井は紹介する。

当然、民主主義社会においても、ヘイトスピーチなど憎悪の扇動や、名誉毀損(きそん)、虚偽情報には法的制限が設けられており、表現の自由は無制限に認められるのものではない。平井は、戦争の扇動も国や地域によっては刑事罰対象となりうると指摘する。

さらに平井は、民主体制での表現の自由の限界を示す重要判例として、シェンク対アメリカ合衆国裁判(1919)を参照する。第1次世界大戦中に兵役拒否を呼びかけるビラを配布したシェンクに対して下された有罪判決を、アメリカの最高裁判所は「明白かつ現在の危険」基準をもって合憲とした。つまり、表現が明白で、実質的に害悪をもたらす確率が高く、その害悪が重大で時間的に切迫しており、害悪を回避するのに規制が必要不可欠だと判断される場合に有罪と判断されるのである。ICCPR第20条遵守のための国内法規が台湾で制定されていないため、「亜亜事件」ではこの基準は適用されず、行政手段で対処せざるを得なかった。

龍応台の論考「台湾に残された時間は少ない」

台湾の有名な女性作家・龍応台が『ニューヨーク・タイムズ』に投稿した文章には、「台湾に残された時間は少ない」というタイトルが付けられ、台湾社会を激しい議論の渦に巻き込んだ。その主な論点は以下のようなものである。

龍応台「台湾に残された時間は少ない」の論点

『ニューヨーク・タイムズ』2025年4月2日

  • トランプ政権によるアメリカの外交政策の大きな転換によって、台湾の人々はネット上でも日常会話でも、アメリカの防衛への取り組みにますます疑念を抱いている。
  • 3月初旬、台湾の大学生の間で人気のオンラインプラットフォームが非公式の世論調査を実施した際、ほとんどの人が中国の攻撃に対して降伏する方を選んだ。
  • 頼清徳政権はスパイ対策で軍事法廷を復活させようとするなど対中強硬路線に転換しつつあり、国民党の対中融和路線こそ台湾にはベストな未来である。
  • 台湾は大国に将来を左右されず、いかにして自分たちが受け入れ可能な条件で中国との平和を確保するかについて、国を挙げて早急に検討する必要がある。

注:頼総統は2025年3月、中国のスパイ活動に対抗するため、戦時に限られている軍事裁判を平時でも開けるよう運用を変更する方針を示した。

1952年生まれの龍は1985年、『中国時報』紙上で「野火」というタイトルの評論を執筆して戒厳令下の国民党一党独裁を批判し、大きな反響を呼び、その後出版された『野火集』は台湾の出版界において空前のベストセラーとなった。それ以降も、次々に話題作を発表し、2009年の著書『大江大海 一九四九』(日本語版『台湾海峡一九四九』)では、戦後台湾に渡った「外省人」(*)の父と母、龍を含むその子どもたちの奮闘と苦悩を、国共内戦に関わった人々、南方戦線にいた日本兵、台湾人日本兵、連合国軍捕虜、中国(共産党)軍捕虜など、異なる立場の人々のストーリーを鮮明に描いた。1986-1999年にはスイスとドイツに滞在し、ドイツ人の元夫との間に二人の息子を持つ母親でもある。国民党政権下で1999-2003年に台北市文化局局長を、2012-2014年に台湾行政院の文化部長(日本の文化庁長官に相当)を務めた。台湾清華大学教授、香港大学孔梁巧玲傑出人文学者を歴任し、2005年、国境を越える言論活動や青少年の文化交流を推進する龍応台基金会(ファンド)を設立している。私はこの基金会の仕事を通して、龍と付き合いがある。

*外省人:1945年10月25日の台湾光復(台湾島・澎湖諸島における日本統治の終了)以降、中国大陸各地から台湾に移り、台湾人として定住している人々。

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