Commentary
孫文 死して100年
遺言状の行方から考える

実は逝去の前日3月11日に孫文が署名したのち、「遺嘱」がどう扱われたかについては、いくつかの説がある。北京の写真館「同生照相館」に撮影してもらい、その写真版が北京の日刊紙『晨報』などに転載されたことは先に述べた。問題はそのあとだが、国民党の元勲で孫の臨終にも立ち会った鄒魯の自伝によれば、撮影が済んだ後、「遺嘱」の原本はかれ自身が広東に持ち帰り、党の然るべき機関に引き渡したという。これがウソでないことは、「遺嘱」作成を取り仕切った汪精衛が翌年1月に党大会という公の場で、次のように明言していることからも裏づけられる。「遺嘱」の原本は広州に回送されたのち、「目下、厳重に管理された場所で、万全に保管している。もしも同志の諸君が見たいのであれば、中央執行委員会に相談して欲しい。また撮影もしてもらってよい」。つまり、1926年時点では、広州の然るべき場所に保管されていたらしいのだが、わかるのはここまでで、そこから先はたどれないのである。
党史會に勤務した経験のある前出の劉維開教授によれば、遺嘱の原本はその後、同時に作成された妻の宋慶齢あての遺書とともに、彼女に預けられ、その保管するところとなったという説があるという。確かに宋あての遺書には、衣類や書籍などの個人資産はすべて妻に与えると書いてあったから、「国事遺嘱」もそのように見なされた可能性はある。周知のように、宋慶齢はその後人民共和国にとどまり、その国家副主席となるから、もし彼女が持ちつづけたとするならば、上海の宋慶齢故居紀念館、もしくは北京后海の宋慶齢故居に、ひっそり眠っているということも考えられなくもない。その意味では、「遺嘱」原本はどこから出て来ても不思議ではない。あるいは今年それが何十年ぶりかで再発見され、大きな話題を呼ぶかも知れない。
没後100年を契機に、等身大の孫文研究を
わたし自身は「遺嘱」原本が意外なところから見つかって、その経緯があきらかになればと思っている半面、見つからないのならそれもよかろうという気持ちもどこかにある。後継者たちがセッティングした「遺嘱」をはじめとする様々な仕掛けによる偶像化が孫文(研究)に与えた正負の影響に思いをめぐらすからである。逝去の直後から始まった大がかりな個人崇拝によって、生涯の実績に数倍する栄を与えられた孫文は、革命の聖人に祭り上げられたが、一方ではそのせいでかれが一体どのような人だったのかという問いかけが果たされなかっただけでなく、かれとその後継者たちによってなされた「中国革命」の是非を問うことも、ずいぶんと先延ばしにされてしまったことは否めない。
孫文を「国父」でも「偉大なる革命の先行者」でもない人間にもどして考えてみる。台湾でも、大陸でも、死後100年を契機にそんな試みがそろそろ始まってもよいだろう。そのためには「遺嘱」の原本は必要ない。「遺嘱」原本が半世紀以上も行方不明だ、それは歴史資料の保管という点では大きな問題かも知れないが、指導者崇拝を生み出す神秘のアイテムが消えたという次元で考えれば、悪いことばかりではないのかも知れない。
注記
1 安井三吉・陳徳仁共編『孫文・講演「大アジア主義」資料集 1924年11月 日本と中国の岐路』法律文化社、1989年、および安井三吉「孫文「大アジア主義」講演と神戸」(『孫文研究』58号、2016年)。
2 檔案記号の「環」は1914-1925年の期間に国民党が本部をおいた上海市の地番(環龍路44号)にちなむ。