トップ 政治 国際関係 経済 社会・文化 連載

Commentary

孫文 死して100年
遺言状の行方から考える

石川禎浩
京都大学人文科学研究所教授
社会・文化
印刷する
孫文を「国父」でも「偉大なる革命の先行者」でもない人間にもどして考えてみる。台湾でも、大陸でも、死後100年を契機にそんな試みがそろそろ始まってもよいだろう。写真は原本が行方知れずになっている孫文の「遺嘱」(遺言状)。Wikipedia「総理遺嘱」の項より転載。
孫文を「国父」でも「偉大なる革命の先行者」でもない人間にもどして考えてみる。台湾でも、大陸でも、死後100年を契機にそんな試みがそろそろ始まってもよいだろう。写真は原本が行方知れずになっている孫文の「遺嘱」(遺言状)。Wikipedia「総理遺嘱」の項より転載。

では、孫文の伝記や資料集などに出てくる写真のあれは、何なのか? 現在、「国事遺嘱」として各種書籍、印刷物、博物館のパネル、オンラインに掲げられているのは、みな1925年に新聞で公表するために撮影された写真版を複製したものである。つまり、写真(あるいは写真をさらに複製したもの)は現在まで伝わっているものの、インクで「孫文」と署名された肝心の紙版の原本はどこに行ってしまったのか、わからなくなっているのである。

これをゆゆしき事態と言わず何と言おう。かの孫文の残した著作の中で、もっとも有名な文書は「遺嘱」だと断言してよい。実は「遺嘱」は孫文が自ら書いたものではなく、かれの信条をもとに汪精衛ら国民党幹部が起草、起案したものである。それゆえ気品のある簡潔な文面は孫自身のものではないし、遺書本文もかれの字ではない。ただし、孫文は全文を聞いた上で直筆でサインしているから、遺言の条件は十分に満たしている。さらに言えば、「遺嘱」が有名になったのは、その練られた文章もさることながら、国民党が孫文の偶像化を強力に進めたさいに、「遺嘱」を最大限に活用したからでもある。国民党の統治下では、上は中央の政治家・官僚から下は学校児童まで、行事や集会があるたびに「遺嘱」を朗誦(ろうしょう)させられた。よく知られた文章のことを、俗に「人口に膾炙(かいしゃ)した」と表現するが、「遺嘱」こそは強制的に全国の人口に膾炙「させた」聖典なのである。国家一級文物であること間違いなしのその「遺嘱」原本が行方不明だというのだから、これはちょっとしたスキャンダルである。

国共いずれかで言えば、作成の経緯からして、国民党の側が持っているのが筋だから、台湾にあると考えるのが普通だろう。台湾の文献資料や歴史文書はデジタル化が進んでいるが、検索しても「遺嘱」の原本は出てこない。むろん、党史會(台北にある国民党の文書館)や国父紀念館にも打診してみたが、所蔵していないとの回答で、念のためこれら国民党関連の文書資料館に勤務経験のある歴史家(劉維開氏〔現・政治大学教授〕、王文隆氏〔現・南開大学副教授〕、鍾文博氏〔現・国父紀念館典蔵組研究員〕ら)にも尋ねたが、貴重書庫に入れる権限を持った人を含め、現物を見たことのある人は一人もいなかった。

撮影されてからどこへ行ったのか

文献学的に考察してみよう。孫文の全集、著作集には当然に「遺嘱」が収録されているが、最新版でその出典を見ると、大陸で出ている『孫中山全集』は、上述1925年3月14日付けの北京の新聞『晨報』に掲載された写真版を典拠としている。一方、現行の台湾版『国父全集』所収の「遺嘱」の出典表示は、「據党史會藏原件影本(環12013)」2 、つまり党の文書館所蔵の資料ではあるが、現物そのものではなく、その写真版によると説明している。この説明は1973年刊行の旧版でも同様であり、すでにその頃には現物は確認できなくなっていたらしいことが知れる。言い換えれば、百年前に作成されたこの遺言状の原本は、少なく見積もっても半世紀以上、行方知れずとみられるのである。

1 2 3 4

Copyright© Institute of Social Science, The University of Tokyo. All rights reserved.