Commentary
孫文 死して100年
遺言状の行方から考える

去年と今年は孫文にまつわる大きな記念年である。去年は、孫文が1924年11月に神戸でかの「大アジア主義」講演を行って100周年、そして今年3月は「革命未(いま)だ成らず」の言葉を遺(のこ)したその逝去から100年の節目にあたる。孫文は100年前の1925年3月12日、肝臓ガンがもとで北京でこの世を去る。時にわずか58歳であったから、今日の基準で言えば、かなりの若死にということになる。これより先、かれは地盤のあった広東から北京入りするにさいして、日本に立ち寄り、神戸に1週間ほど滞在、生涯最後の訪日となったそのおりに、千を超える市民を相手に行ったのが「大アジア主義」講演と呼ばれるものである。
「大アジア主義」講演
孫文は、近代化を成し遂げ、西洋列強と肩を並べるに至った日本の今後の進むべき道について、講演の最後でこう訴えた。「西洋覇道の鷹犬(手先)となるのか、東洋王道の干城(防波堤)となるのか、よく考え、慎重に選んで欲しい」。亡命期間を含め前後9年ほどの滞日生活を送るなど、日本(人)と縁の深かったかれが日本人に発した最後のメッセージである。その後の日本の歩みがこの孫文の問いかけを無にするものであったため、近代日本の岐路を語る場合に、「大アジア主義」講演は、今でもしばしば引用される。もっとも、むすびの「西洋覇道の鷹犬となるのか……」のくだりは、講演の翌月に中国紙『民国日報』に掲載されたさいに加筆されたものとみられる1が、いずれにしても病躯(びょうく)をおして行った講演からほどなく、かれが亡くなったという意味で、「大アジア主義」講演と孫文逝去はひとつながりのこととして扱われることが多い。
「大アジア主義」講演と孫文については、2024年11月末から12月初めにかけて、二つの100周年記念シンポジウムが神戸を会場として相次いで行われた。一つは駐大阪中国総領事館主催で、中国の外交筋が中心となり各界に働きかけて進めたもので、もう一つは神戸を中心に活動する孫中山記念会、および孫文研究会が主催者となったものである。ともに「大アジア主義」講演を振り返り、その今日的意義を考えるという点は共通しているが、オリジナルの講演から一世紀を経て、日中両国の国際的立場や力関係のとらえ方もかなり変化したことをうかがわせるような空気の違いが感じられた。ひとことで言えば、前者のシンポジウムがトランプ政権の登場で米中関係の緊張が伝えられる情勢をうけて、中国が、今こそ新たなアジア型発展モデル(“アジア運命共同体”)をともに推進していきませんかという新たなアジア主義の心地よいお誘いを日本に投げかけたものだったとすれば、後者は歴史研究者をメインに据えて、大国となった中国の今後の行く末に思いを致し、かつて日本に向けられた孫文の問いかけが、今やそっくりそのまま中国に突きつけられていると訴えるものが多かったように見受けられた。
「大アジア主義」の旗をどう掲げ、どう降ろすのか、2024年が百年越しのその課題に答えを見つけようとするものだったとするならば、2025年は孫文その人をめぐって、その評価と価値が問われる年となるはずである。「国父」と呼ばれ、革命の先覚者として、指導者として、または三民主義の首唱者として、長らく中国近代革命史の中心に位置した孫文だが、近年はかれの人物評価も見直されつつあり、「国父」の価値もこの20年ほどでだいぶ目減りしてしまった。ただし、目減りの原因は孫文その人にあるというよりも、かれの肩書きにあるといった方が正しい。どういうことか。