Commentary
中国学とSinology
「漢華圏」平和論序説
サイノロジーとチャイナ・スタディーズ
「中国」は自明の概念ではありません。したがって、「中国学」は単に「中国に関する学問」ではありません。どういうことでしょうか。
試みに「中国学」を英語に翻訳してみましょう。例えば、このウェブサイト「中国学.com」は「Sinology」と訳しています。この概念は、イエズス会の宣教師たちが16世紀ごろに明朝支配下の中国を訪れ、儒学などの古典をヨーロッパに紹介したことにまで遡(さかのぼ)ることが可能な由緒ある学問の名です。
しかし、この訳に「あれっ?」と思われる方もいるのではないでしょうか。なぜChinese studiesとかChina studiesではないのでしょうか。中国を今日の世界地図を前提とした研究対象地域と見なした場合、Chinese/China studiesのほうが「中国学」と相性のよい名称のように思われたとしても何ら不思議はないですし、むしろそのほうが自然な対応関係のように感じられることかと思います。サイト運営者がなぜSinologyという概念を使うのかわたしは存じ上げませんが、Sinologyとすることによって、「中国/China」なる呼称の自明性への問いがひらかれることはまちがいありません。トップページの最上段に掲げられているとおり、このサイトが議論しようとするのは「中国の現状と未来」です。そして、「中国の現状と未来」を考えるために、「中国学」とSinologyの間にある「すきま」の存在は、この上なく重要な視点を提供しているとわたしは感じます。なぜなら、「中国」とは長い歴史と広い空間の中でとどまることなく変化し続けることによって、つねに未来を内包する豊かな概念にほかならないからです。
中国語圏では「漢学」も有力
Sinologyは今日の中国語圏では「海外漢学」と呼ぶことが多いようです。あるいは単に「漢学」という場合も、ほとんどの場合はこれを指しています。ヨーロッパの学者と話していると、最近ではSinologyがどんどんChinese studiesになってきたという感想を聞くことがよくあります。わたしが交流するのは、主に中国哲学研究者ですので、かれらの観念の中では、Sinologyは漢文文献をテクストとする研究であり、Chinese studiesは地域研究的関心からの中国研究であるという区分があるようです。つまり、Sinologyには古典研究や文献学研究のニュアンスが濃く、Chinese studiesはより社会科学的分析に傾いているということなのでしょう。
「漢学」に関しておもしろいのは、近年来、台湾で「漢学」や「国際漢学」が提唱されていることです。かれらは敢えて「中国学」ではなく「漢学」と呼ぼうとしているのですが、必ずしもSinologyばかりを指すわけではありません。わたしが関わっているものだけでも国立政治大学(台北)の羅家倫(らかりん)国際漢学講座や国立中山大学(高雄)の跨文化国際漢学之島:国際漢学平台在中山(文化横断的国際漢学の島:中山国際漢学プラットフォーム)がありますが、これらはいずれも「漢学」をSinologyと訳しています。一方、台湾政府が蒋経国時代(1970年代後半~1980年代)に教育部直轄で設置した漢学研究センターがありますが、こちらではChinese studiesと訳されています
日本の近代と中国学
さて、では日本ではどうでしょうか。Sinologyは「シノロジー」にように発音されることがありますので、「シナ学」といういまでは使われなくなったことばを想い浮かべることができますし、「漢学」ということばも、さほど使われませんが確かに存在しています。これらのことばが制度化していくのは明治時代のことです。明治維新政府のもとで近代的な学制が整備される過程では、漢籍を扱う学問が「漢学」の範疇(はんちゅう)に括(くく)られるようになります。しかし、それはChinese studiesとは異なるものでした。なぜなら、その中には漢文教育も含まれていたからです。つまり、漢文で書かれた古典籍に依拠しつつ、漢文の読み書き能力向上を目標に組み込みながら行われた学問が明治の「漢学」だったのです。
一方で、そうした漢学には歴史性もなければ比較の視座も乏しいということで、中国に伝わる諸学説を網羅的に研究対象とすべく設けられたのが「シナ学」でした(当時は「支那学」と表記されました)。例えば、哲学に関しては、西洋哲学を扱う「哲学」と並んで、「印度哲学」と「支那哲学」が大学に設置されました(明治期における「漢学」と「シナ学」の形成については、水野博太『「支那哲学」の誕生 東京大学と漢学の近代史』、東京大学出版会、2024年、を参照しました)。このように、「漢学」に対する「シナ学」の成立は、日本における「中国学」の誕生であるかのようにも見えますが、そう判断するのはいささか早計のようです。
自分の国を「中国」と呼ぶことの画期性
1912年、二千年以上にわたって続いた王朝体制の崩壊を受けて中華民国が成立すると、中国人は、「支那」なる呼称は侮蔑(ぶべつ)的であると反発を示すようになりました。それより前、日本には清朝打倒を志す人や、清朝を維持しつつもそれを近代的な立憲国家につくりかえようと考える人など、自分たちの社会の変革を求める人々がたくさん日本に集まっていましたが、その中には自らのことを「支那人」と称している人も少なくなかったのです。だからといって、そう名乗ることを誰もが心から喜んでいたかというとそうではなかったようです。立憲改革派の梁啓超(りょうけいちょう)は、中国の長い文明は王朝交替の歴史であり、それらを貫く統一の国家が存在してこなかったことを嘆き、まずそれに名前を与えるところから始めるべきだと主張しました。王朝が変わっても一貫した伝統は続いているという認識こそあれ、この一貫性を保つシステムの名称は未確定だったのです。
清朝打倒を目指す人たちにとって、この問題はより切実でした。なぜなら自らの帰属する国家を清朝であると名乗ることは、清朝打倒の立場としては受け入れがたいものだったはずだからです。こうしたことから、もともとは「国の中央」というほどの意味だった「中国」が、かれらにとって共通のアイデンティティを示す国家の名前として相応しいという考えが生まれてきます。また、中原地域の人々を古来「華夏(かか)」と呼んでいたことを受けて、「中華」という呼び名も生まれてきました。「中華民国」はそうした中から考案された国名です。中華民国の成立は、中国人にとって、自らの国民アイデンティティを託す新しい国家の誕生を意味したわけですから、日本人がその後も国なき文明として「支那」の呼称を使い続けることは、うれしかったはずはありません。
「中国の現状と未来」を理解することとは
日本人の中にも、そうした感情に共鳴し、「支那哲学」や「支那文学」という看板を掲げ続けていた大学の学問に反旗を翻(ひるがえ)す動きが出てきます。竹内好や武田泰淳らによる中国文学研究会結成(1934)がそれです。新しい共和国家として歩み始めた中国の「現状と未来」を正しく認識しようという彼らの野心は、しかし、Chinese studiesと決して同じではなかったとわたしは思います。というのも、彼らは「中国」という当時としては斬新な概念を研究対象に掲げることで、中国に対する日本人の理解のありかたを変えようとしたのであり、それは究極的には、日本語で行われる世界認識のありかたを転換しようとすることでした。その意味では、「中国の現状と未来」を論じながら、彼らが最も関心を寄せていたのは、「日本の現状と未来」であったとすら言えるだろうと思うのです。このことは、竹内や武田の戦後の活躍ぶりから見ても的外れな評価ではないはずです。「中国の現状と未来」は、彼らにとって、他なる対象ではなく、自らが属している世界に対する自らの働きかけの起点であり、自らの未来を切り拓(ひら)く実践の武器でもあったのです。
今日では「シナ/支那」という表現は、日常の表現としても差別語であるという認識が普及して今日に至っています。Sinologyは国際的に広く使われていることばであり、語源のSinaeは「秦」の転訛(てんか、本来の発音がなまって変わること)だと言われていますから、これを日本語的に表した「シナ/支那」に侮蔑的な意味はないという意見も確かにあります。しかし、これまでに述べたような経緯を反省的にとらえるかぎり、それらの経緯を無視していまこれを「シナ学」と呼ぶのは、日本の近代化過程で行われた暴力的な対外拡張の歴史を否定することが恥ずべきであるのと同じように恥ずかしいことであるとわたしは思います。
「漢華圏」としてのサイノスフィア
しかし、Sinologyを「中国学」と訳せばそれですべて解決するかというとそうでもなさそうです。上述のように、SinologyとChinese Studiesは単に呼び方が異なっているのではなく、厳密に言えば扱う対象が異なっています。また、より複雑なことにヨーロッパのSinologyが本来対象にしていた「中国」は必ずしも同時代の中国と同じではないのです。復旦大学の歴史学者葛兆光によれば、中国の領域は歴史的に可塑(かそ)的であり、現在の中華人民共和国の支配領域をそのまま歴史的に不変の固有領域であると考えることはできません(葛兆光『中国は“中国”なのか』、橋本昭典訳、東方書店、2020年)。
歴史的スコープだけではなく、空間的にも「中国」は多元的です。ハーヴァード大学の現代中国文学研究者王徳威は、ここ約十年ほど、「華語語系文学」(Sinophone literature)という方法論を提唱しています。この方法論によれば、台湾、香港や少数民族自治地域のような中華人民共和国の周縁のみならず、東南アジアや欧米の華僑・華人世界もまた、一つにして多様なSinophone(中国語を基幹とする諸言語の総称)圏域の中に納められます。とりわけその周縁に近づくほど、言語的多様性は複雑化し、社会レベルのみならず個人においても多言語使用が日常化して、世界は数多くの異なる声の響き合う世界——ミハイル・バフチンの言う「ヘテログロシア」——として立ち現れてきます。そして、そこはつねに内外を通じる開放性に支えられており、そうであるが故の豊かさとトラウマが混在しながら、未来へ向かっているのです。「中国」の可塑(かそ)性や、そうであるが故の多様性は、それ自体が豊かな可能性の場として、その内外の人々を誘っているとも言えるでしょう。
日本も「中国」の圏域の一部を構成している
実は、「中国」をひとつの圏域であるととらえた場合、最も重要な事実は、わたしたちがこうして毎日を暮らしている社会もまた、その圏域の一部を構成しているということです。そのことは、明治の漢学が日本語話者の文章作法や基本素養としての漢文を含んでいたことからも明らかです。漢字がなくして、日本人の読み書き能力は開花せず、漢字を受容したが故に、日本人は、中国の古典籍を自らの世界観や道徳観、政治社会体制の礎(いしずえ)にしました。神道や日本独自に発展した仏教などに代表される宗教観も、それらがここまで豊かになるための想像力の資源として、漢字が決定的な作用を果たしていたことは否定しようがありません。日本文化が表す世界は漢字を基礎として構成されてきました。もちろんそれらをすべて中国由来のものであると考えるのはナンセンスですが、受容、借用、同化、土着化など、次元の異なるさまざまな変容と生成のプロセスにおいて、Sinophone圏域の周縁であることの特性が活かされており、それによって日本文化が育ってきました。大切なことは、このプロセスが一方的な「中国化」だったのではないということです。例えば近代語彙の日本語から中国語への移入のように、日本から中国への流れもありました。
要するに、Sinophone圏域とは、中央の華夏文化から大きな影響を受けつつ、多様な周縁を開放的に包摂(ほうせつ)し、つねに変容し続けているダイナミックな相互関係の領域であり、日本もその中に入っているということだと思います。Sinophoneはこと言語に着目した概念なので、言語を媒介とするあらゆる文化を含みこむと考えるなら、Sinosphere(サイノスフィア)と呼んでみてもよいでしょう。漢字と漢文化を共有する圏域という意味では、これを「漢華圏」と訳すことも可能かもしれません。ただし「漢字文化圏」という既存のことばを使わないのは、Sinosphereには、漢字を使わないエスニック・グループ(例えばモンゴル、チベット、ムスリム系諸民族、台湾原住民などなど)も包摂されうる弾力性がつねに存在するからです。わたしたちにとってSinologyとは、この多様な圏域の中に棲(す)まいながら、この圏域の未来を共に創っていく学問であるということができます。
友と信の「中国学」へ
漢華圏の中にどっぷりと浸かって、それを中心とする世界イメージを形成してきた江戸時代までの長い歴史の後に、西洋と出会ってより大きな世界の存在をまざまざと知ることになった日本は、西洋中心の世界像を受け入れ、それに追いつこうと努力してきました。この近代化の過程で、日本は自らが漢華圏の先導者となろうとする傲慢(ごうまん)な態度で、この圏域を自らの支配下に納めようと侵略と植民地化の道を歩みました。その戦争に敗れたことによって、ようやく日本は漢華圏との和解の端緒を得ます。1972年の日中国交回復と1978年の日中平和友好条約締結はその画期でした。「友好」、いや「友(ゆう)」は、儒学における五種の人倫関係(父子=親、君臣=義、夫婦=別、長幼=序、朋友=信)の中で唯一対等な関係です。血縁にも権力にもよらないこの関係が維持されるための紐帯(ちゅうたい)は「信」以外にありません。つまり、日本と中国が友好関係を結んだことは、相互の「信」が両者の関係を規定するのだと法的に定められたことにほかなりません。しかも、この相互信頼関係が単に二国間関係を規定するだけでないことは、これらの条約にも明確にされています。
両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。(「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」1972年)
つまり、日本と中国の友好関係は、アジアと世界の平和に貢献するものであり、そうならなければなりません。漢華圏が長い歴史の中で圏域内外の多様な文化による相互作用の領域であったのは、決して過去のことではありません。むしろ、近代の惨禍を経て再び友好関係を相互に確認し合った今日こそ、その豊かな平和的発展のための条件はそろったと言うべきです。単に「中国」を理解するためにだけではなく、漢華圏の未来を共に想像し、豊かにしていくための智慧としてこそ「中国学」はあります。
北半球の西側で戦火が収まらず、緊張が太平洋にも及ぼうとしている今日、日本の「中国学」はSinologyの歴史に連なることによって、平和な世界を実現するためのモデルを漢華圏から提供していくことができるはずです。