Commentary
中国学とSinology
「漢華圏」平和論序説
日本の近代と中国学
さて、では日本ではどうでしょうか。Sinologyは「シノロジー」にように発音されることがありますので、「シナ学」といういまでは使われなくなったことばを想い浮かべることができますし、「漢学」ということばも、さほど使われませんが確かに存在しています。これらのことばが制度化していくのは明治時代のことです。明治維新政府のもとで近代的な学制が整備される過程では、漢籍を扱う学問が「漢学」の範疇(はんちゅう)に括(くく)られるようになります。しかし、それはChinese studiesとは異なるものでした。なぜなら、その中には漢文教育も含まれていたからです。つまり、漢文で書かれた古典籍に依拠しつつ、漢文の読み書き能力向上を目標に組み込みながら行われた学問が明治の「漢学」だったのです。
一方で、そうした漢学には歴史性もなければ比較の視座も乏しいということで、中国に伝わる諸学説を網羅的に研究対象とすべく設けられたのが「シナ学」でした(当時は「支那学」と表記されました)。例えば、哲学に関しては、西洋哲学を扱う「哲学」と並んで、「印度哲学」と「支那哲学」が大学に設置されました(明治期における「漢学」と「シナ学」の形成については、水野博太『「支那哲学」の誕生 東京大学と漢学の近代史』、東京大学出版会、2024年、を参照しました)。このように、「漢学」に対する「シナ学」の成立は、日本における「中国学」の誕生であるかのようにも見えますが、そう判断するのはいささか早計のようです。
自分の国を「中国」と呼ぶことの画期性
1912年、二千年以上にわたって続いた王朝体制の崩壊を受けて中華民国が成立すると、中国人は、「支那」なる呼称は侮蔑(ぶべつ)的であると反発を示すようになりました。それより前、日本には清朝打倒を志す人や、清朝を維持しつつもそれを近代的な立憲国家につくりかえようと考える人など、自分たちの社会の変革を求める人々がたくさん日本に集まっていましたが、その中には自らのことを「支那人」と称している人も少なくなかったのです。だからといって、そう名乗ることを誰もが心から喜んでいたかというとそうではなかったようです。立憲改革派の梁啓超(りょうけいちょう)は、中国の長い文明は王朝交替の歴史であり、それらを貫く統一の国家が存在してこなかったことを嘆き、まずそれに名前を与えるところから始めるべきだと主張しました。王朝が変わっても一貫した伝統は続いているという認識こそあれ、この一貫性を保つシステムの名称は未確定だったのです。