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Commentary

なぜ中国で「上野千鶴子ブーム」が巻き起こったか?
フェミニズムの停滞と再興

李亜姣
宇都宮大学国際学部助教
社会・文化
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2023年の中国で突然起きた「上野千鶴子ブーム」は、ジェンダー及びフェミニズムを取り巻く中国社会の動向から理解する必要がある。写真は北京市内の書店に並ぶ、中国語に翻訳された上野の著書。2024年2月(共同通信)
2023年の中国で突然起きた「上野千鶴子ブーム」は、ジェンダー及びフェミニズムを取り巻く中国社会の動向から理解する必要がある。写真は北京市内の書店に並ぶ、中国語に翻訳された上野の著書。2024年2月(共同通信)

 「不婚不育」というスローガンが転換点を迎えたのは、ゼロコロナ政策の最中に起きた出来事がきっかけである。2022年5月、ある若い男性が警察官と対峙(たいじ)しているビデオがネット上で大流行した。そのビデオには、警察官が男性に、「移送[6]」を拒否すれば家族の3世代が処罰の影響を受けると警告する様子が映っている。「我々が最後の世代だ」と彼は警察に言っていた。ゼロコロナ政策を徹底するために一部の地域で末端の管理者たちが行き過ぎた行動制限を実施した結果、さまざまな人災が生じたりするなど、不透明な運用ルールによる生活や仕事への影響が国民の不満を引き起こした。若者にとって、こうした圧迫に対して個人でもできる抵抗は、「不婚不育」であり、先ほどの男性の言葉もその一例である。その後、「不婚不育」は男性を含む広い範囲の若者から支持を獲得し、中国社会への消極的な抵抗に変わった。ラディカルフェミニズムがネット上で掲げたスローガンの「反婚反育」と比べると、「不婚不育」を主張し、能動的に実践する主体が現実社会に現れるようになった。同じ時期に、「躺平(タンピン、寝そべり族)」という造語も流行った。ゼロコロナ政策の不透明な運用ルールによって、社会的再生産のデプリーション(Depletion、枯渇)が発生したと言えよう。

 2023年2月に実施された、北京大学を卒業した3人の女性と上野との対談は、フェミニスト以外の一般の人々が上野の名前を知るきっかけとなった。30代半ばの北京大卒の女性が上野に対して「なぜ20歳ごろから結婚しないと決めたの?男性に傷つけられたの?それとも家庭の問題なの?」と質問したことや、「結婚・出産を経験した女性はフェミニストの最下層に属するのか」といった質問は、世間に大きな波紋を呼んだ。その理由としては、「反婚反育」がこれまで何度もネット上で大炎上してきたことや、「不婚不育」をめぐって男女問わず厚い支持層が形成されたことが挙げられる。また、対談に出た北京大卒のエリート女性たちが、婚姻が権利の剥奪を伴うことに無自覚なだけでなく、他者の「不婚不育」の選択を見下していることがネットなどで批判された。

 これまで上野の名前は、フェミニズムやジェンダーに関心を持つ人々の間でのみ知られていたが、この対談を契機に一気に社会現象となり、より多くの人々に認知されるようになった。

3.中国独自のマルクス主義フェミニズムの再燃

 第三の理由として、中国国内のバックラッシュ(反動)の影響で行動派フェミニストを代表とする自由主義フェミニズムの活動が停滞しており、婦女連(中華全国婦女連合会)をはじめとする国家フェミニズムの見えざる政治も終焉(しゅうえん)を迎える中、中国独自のマルクス主義フェミニズムが再燃していることが挙げられる。上野の『家父長制と資本制』はその再燃に向けて薪を集める役割を果たした。

 2012年以降、20~30代の若い女性を中心にした行動派フェミニストはソーシャルメディア、パフォーマンス・アート、ヴァギナ・モノローグを中心とする演劇、フェミニストセミナー等を通して、アドボカシー(擁護)活動やフェミニスト・コミュニティの構築に力を入れた。2015年のフェミニスト5人姉妹事件[7]以降、フェミニズムへの弾圧が公然化した。こうしたバックラッシュの影響を受けて、行動派フェミニストの活動範囲は公共領域から退かざるを得なくなった。

 婦女連をはじめとする国家フェミニズムは建国(1949年)以来、舞台裏で男女平等的な政策や法律を熱心に推進してきた(詳しくは本サイト掲載「変わりゆく中国におけるフェミニストのもがき」を参照)。しかし、2017年に婦女連のリーダーの一人が、中国共産党と習近平思想の指導の下で婦女連の仕事を進めていくことを強調する傍らで、「女権主義」、「女権至上」といったフェミニズムの概念は、「西側の敵対勢力」が中国を西洋化し分裂させるための策動だとして批判する文章[8] を発表した。

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