Commentary
なぜ中国で「上野千鶴子ブーム」が巻き起こったか?
フェミニズムの停滞と再興
1.ジェンダー研究の遅れと停滞
第一は、日本に比べて中国の女性学・ジェンダー研究が遅れていることである。
1980年代に李小江が率いた婦女研究運動の影響を受け、中国で女性学が創設され、女性学学部や婦女研究センターも各地の大学で開設された。また、一部の大学・大学院には、女性文学とジェンダー文学研究、社会学と女性学、コミュニケーション論とジェンダー等、学際的なジェンダー研究の専攻が各学科の下に設置されるようになった。
にもかかわらず、現在、女性学学部を有する大学はたったの3校しかない[4]。また、2010年以降、一部の婦女研究センターは創設者の定年退職とともに消滅していった。女性学・ジェンダー関連の学会や研究センターが多数存在する日本と比べると、中国の女性学・ジェンダー研究はかなり遅れている。新自由主義改革や国家主義等のジェンダー研究は海外で盛んに行われているが、中国国内のジェンダー研究は政治的影響で文学や表象研究にとどまるしかない。上野のようにジェンダーと政治経済学の視点から現代社会を分析する研究は中国では非常に少ない。例えば、筆者が監訳者としてかかわった上野の『女たちのサバイバル作戦』[5](写真左奥)は、1985年の男女雇用機会均等法の制定以来30年間、日本女性が教育、雇用、結婚、出産、介護などの場面で直面した課題に焦点を当て、ジェンダーと新自由主義の複雑な関係を体系的に解明したものである。人気書き込みサイト「豆瓣」(Douban)で読者の感想を読むと、上野の日本社会についてのジェンダー研究に共感し、中国にもこういうジェンダー研究が欲しいというコメントが目に付く。つまり、中国社会の現状を分析するジェンダー研究が不足しているため、上野のジェンダー研究が中国の女性が置かれている苦境を理解したいというニーズに応えたわけである。女性学・ジェンダー研究が中国の高等教育において冷遇されている現状は、「ブーム」の大きな背景の一つとなっている。
2.ゼロコロナ政策の影響
第二の理由として、ゼロコロナ政策によって、中国の社会的再生産領域(Social Reproduction)が大きな打撃を受けたことが挙げられる。多くの人々は市民生活基盤の脆弱(ぜいじゃく)性に気づき、「不婚不育」(結婚も出産もしない)を抵抗の手段として取り始めた。それが上野の知名度をさらに上げる道を開いたのである。
2018年に中国の行動派フェミニストたちは家庭内性暴力問題防止を呼び掛けるため、「不婚不育保平安(身の安全を守るため、結婚も出産もしない)」を打ち出した。このスローガンは、婚姻制度を批判するものであるが、既婚女性は批判の対象としない。しかし、これに対する反響は当時あまり大きくなかった。一方、2016年以降、若い女性ネチズンを中心にラディカルフェミニズムが登場した。彼女らは、主に「反婚反育(結婚や出産に反対)」、「反服美役(美しさの規範による束縛に反対)」を掲げた。女性の社会的地位が向上する一方で家事労働の負担が続くという矛盾の中、結婚という重荷を下ろして仕事だけに集中しようという呼び掛けが「反婚反育」であり、同じ系統の造語として、「搞銭(お金を稼ぐこと)」、「婚驢(ロバのように働いて石臼を引く女性のことで、男性よりも多くの時間、労力、物資を提供する既婚女性に対する揶揄(やゆ))」などがある。婚姻制度に敵対し、女性内部を分裂させるラディカルフェミニズムの動きは、コロナ禍前から何度もネット上で大炎上したことがある。