Commentary
アクチュアルなものとしての伝統
現代中国知識人の儒教に関する議論から学べることは何か?
現在の中国思想界は、主に文化大革命終焉後のさまざまな思想論争を通して形成されてきた。1980年代には、文化大革命への反省や改革開放後の時代的雰囲気の下で啓蒙主義が一世を風靡した。そして第二次天安門事件を経て、中国が90年代以降のグローバルな経済動向とますます結びつくようになると、自由主義と新左派との論争が生じた。さらには中国が国際的な影響力を高めていった2000年代以降、国家主義や新儒家の台頭など、さまざまな思想潮流が生じ、現在に至っている。
こうした各種の思潮はさまざまな主張を持ちつつも、ある共通した課題に取り組んでいる。すなわち、中国の伝統をいかに捉え、どう自己の思想に位置づけていくのかという課題である。以下では、その課題への取り組みを紹介し、現代中国知識人にとっての中国の伝統の重みを考えてみたい。
1.西洋発の普遍的価値への異議申し立て――国家主義や新儒家にとっての儒教
伝統重視の典型例としては、国家主義や新儒家などの思潮を構成する知識人たちがあげられる。こうした知識人たちは、1990年代から2000年代にかけての時代状況――従来の啓蒙主義への反省、中国の国際的な台頭、中国共産党による儒教の再評価など――の中で、西洋発の普遍的価値に対し、中国的な価値の優位性を主張するようになった。そこで中国的な価値を体現するものとして注目されたのが、儒教の伝統であった。
代表的な論者としては、改革開放以降の伝統・毛沢東時代の伝統・儒家の伝統という三つの伝統の融合を説いた甘陽(かんよう)、共産党の「儒化」(儒教化)と儒士の共同体による「仁政」の実現を唱えた康暁光(こうぎょうこう)、儒教復興による中国政治の合法性の確立や制度設計を説いた蔣慶(しょうけい)などがあげられる。こうした知識人たちは、ほぼ共通して次のような認識を示している。すなわち、自由民主主義など西洋発の普遍的価値は現在破綻している、もしくは中国の現状にそぐわないという認識である。このような認識の下、儒教に独自の価値を認め、現実政治に直接活かそうとするのである。
2.普遍的価値との接続――自由主義と儒教
西洋に対抗して中国的価値を重視するこうした思潮が、自身の伝統に注目するのは比較的見やすい論理だといえる。一方、西洋的普遍の意義を強く認める自由主義的立場にたつ思想家たちにとっても中国の伝統は重要なものであった。では、現代中国においては、どのような仕方で自由主義と儒教とが結びついているのだろうか。
例えば、現代中国の代表的な自由主義者の一人とされる劉軍寧(りゅうぐんねい)は、1990年代、東アジア諸国の経済発展を背景に、「儒教自由主義」なる概念を提示している。劉によれば、「儒教自由主義」とは、政治面では代議政治・憲政法治・政党政治に儒家の施政のスタイルを加えたものであり、経済面では、自由市場経済の実行に、勤勉で互助的な儒家の職業倫理を加えるとともに、政府が儒家の富民養民思想の影響を受けて経済生活に対し積極的なコントロールを行うものである。さらに道徳文化面では、自由主義が強調する個人の権利・自主自立・競争精神を取り入れるだけでなく、儒教の忠恕孝順(忠恕はまごころを尽くし思いやりのあること、孝順は両親に従順であること)や尊老愛幼(年長者をうやまい子どもをいたわること)、教育の重視や集団的利益の重視などの傾向をも保持するものである。さらに劉は、市場経済を媒介として儒家伝統と民主政治とをつなげる「三点一線論」を展開している(劉1993)。
また時期は下るが、近年その著作が日本語訳もされた許紀霖(きょきりん)は、2010年代に、自由主義や中国の伝統について以下のような形で論じている(許2020)。自由主義は、政治的な「正しさ」を実現できる反面、倫理的な「善さ」を求めることについては十分な回答ができていない。自由主義はその点を克服するために、倫理的な「善さ」を問うてきた枢軸文明(カール・ヤスパースの概念)に自身の根を見出すべきである。その枢軸文明の一つこそが、儒教を含む中国の文明であった。
さらに許の議論で有名なのが、こうした彼の自由主義観とも関連する「新天下主義」の提唱である。許によれば、中国には本来、国という特殊を超えた普遍としての天下を追求する思想があった。その思想の制度的な表れは、中華帝国の統治制度であり、朝貢体制であった。中華帝国の統治制度においては、皇帝の直接統治が行われる地域には郡県制が敷かれ、周辺の民族に対しては分封(ぶんぽう)、羈縻(きび)、土司(どし)などの地方統治制度を通じ一定の政治的自主性が認められた。また朝貢制度においては、各国間の互恵や、倫理的な「義」に基づく貿易の往来が重視されたとする。
もちろん許は、こうした天下概念に基づく中華帝国の制度を、そのまま現代に復活させようとしているのではない。伝統的な天下概念は、中華を中心とする発想やヒエラルキー思想を有しているからである。そこで現代においては、旧来の天下概念を「脱中心化」・「脱ヒエラルキー化」したうえで、天下概念本来の特徴である普遍の希求を継承しつつ、対内的には諸民族・諸地域の多元的共存を、対外的には諸国家の相互承認による多元的共存を目指していくべきであるとする。より具体的には、EUをモデルとする「東アジア運命共同体」を構想している。
3.伝統の重みに向き合う批判的精神
このように現在の中国では、さまざまな知識人たちが、中国の伝統との関わりをアクチュアルな課題として捉え、思索や実践の糧(かて)としている。こうした知識人たちの知的営為はいずれも真摯(しんし)なものとして評価できるが、筆者は特に、先に紹介した自由主義的立場にたつ知識人たちの中国伝統との関わり方に注目してみたい。
こうした知識人の議論に共通すると思われる特徴は、儒教に注目する場合でも、そこにある種の批判的精神が見出されることである。例えば、劉軍寧の見るところ、儒家の思想にも自由主義学説で重要視される、代表制度に関する主張が含まれている。ただし、自由主義的な代表制度が、下から上へと利益要求を表明する利益代表制であるのに対し、儒家は、上から下への利益の分配を行う賢能代表制を取り、個人は受け身の受益者に過ぎなくなるという。また儒家的な賢能代表制が家父長制的な傾向を持つとも指摘する。孟子の民本(統治者が民のために政治を行うこと)・革命といった発想についても、西洋的な民主との違いや制度的な裏付けの無さなどを指摘している(劉1993)。
許紀霖は、前述の通り、天下概念について新・旧を厳密に区別し、旧来の天下主義の問題点として次の点をあげている。
伝統的な天下主義は、中華を中心とした同心円をなすヒエラルキー的な権力/文明の秩序である。新天下主義がまず初めに切り捨てるべきは、この中心とヒエラルキー化された秩序である。……新天下主義が解消したいのは、こうした伝統的な天下主義と各種の枢軸文明に共通する、核心となる民族から全世界へ、中心から周縁へ、単一の特殊性から同質の普遍性へと上昇する文明の構成それ自体である(許2020:60-62頁。「……」は筆者による省略)。
以上のような儒教に対する批判的な視点は、同じく儒教に注目する国家主義や新儒家の知識人たちが、儒教から現代に適応可能な要素を選択したり、あるいは儒教的価値を直接現実社会に実現させようとしたりするのとは、異なる特徴を持ったものであるといえる。
自由主義的立場にたつ知識人たちが中国の伝統を語る背景には、さまざまな要因が存在している。そもそも中国共産党が伝統を重視するようになる中で、反伝統を強調するタイプの議論はしにくくなっているということもあるかもしれない。ただ、筆者がここで注目したいのは、こうした知識人の次のような意識である。すなわち、真に普遍的な価値を中国に根づかせるには、やはり中国から出発しなければならないという意識であり、その背後にある、中国人である以上、中国の伝統から逃れることはできないのだという深刻な自己認識である。
むろん容易に見てとれるように、こうした〔儒家の〕賢能代表説や制度は、家父長制的傾向を比較的強く有するもので、ひいてはあまり望ましいものではない。問題は、われわれが当分の間この伝統を放棄することができそうにないということである。それができない以上、われわれは、賢能代表制を〔英米のような〕利益代表制と結びつけ、賢能代表制には利益の表明のための有効な制度的ルートを提供させるとともに、知的エリートには積極的かつ自発的に才能を発揮させたほうがよい。二つの方法〔賢能代表制と利益代表制〕で社会の利益をよりよく調整できれば、いっそう大きな成果が得られるかもしれない(劉1993:103頁。〔 〕内は筆者による補足)。
わたしが新天下主義という言葉を用いると、どうしてあなたはコスモポリタニズムや世界主義を使わないのかと問われます。しかしそれらはやはり西洋の概念なのです。最近の中国では洋学原罪論、つまり西洋の学問、あるいは西洋の術語を使うと、すぐに批判される風潮が高まっていることもあり、そういう人たちに応答するためにも中国伝統にあるものから考えてみようと思ったのです。新天下主義はまさに中国の伝統にある普遍的なものを抽出して証明しようというものです(許2020:318頁)。
彼らのこのような発言には、自己の伝統の重みを自覚し、それに対して責任を持つという意識が表れているように筆者には思われる。
むろん、現代中国知識人の考える伝統が、そもそもどの程度史実を反映したものなのかといった点については、今後も検討を深めていく余地はあろう。また本稿で注目した伝統の批判的な継承であれ、中国の伝統を再評価すること自体が、中国中心主義や現在の中国の国策と重なってしまうことへの懸念は生じうるだろう。
ただ、現代中国知識人の自己の伝統との関わりが、今後も、現代中国のあり方を考える際に重要な論点であり続けることは間違いないであろう。また本稿では、普遍的な価値を自国に根づかせるため自己の伝統を内在的に批判するという中国知識人の姿勢に注目した。このような姿勢は、同じく普遍の問題を考えざるをえない日本で生きる人びとにとっても、学ぶべき示唆に富んだものであると筆者は考えている。
参考文献:
石井知章編『現代中国のリベラリズム思潮――1920年代から2015年まで』(藤原書店、2015年)
大西広「中国の「保守的自由主義」は真の普遍たりうるか――許紀霖の非マルクス主義的普遍主義を批判する」(『社会主義理論研究』3巻1号、2023年)
緒形康「大陸新儒家の34年」(『中国21』第60号、2024年)
干春松(小野泰教訳)「21世紀初頭中国大陸における「儒学運動」の理論構想およびその評価」(『中国伝統文化が現代中国で果たす役割』UTCP、2008年)
許紀霖(中島隆博/王前監訳)『普遍的価値を求める――中国現代思想の新潮流』(法政大学出版局、2020年)
志野好伸「書評:弱い普遍性の探求――許紀霖著、中島隆博・王前監訳、及川淳子・徐行・藤井嘉章訳、『普遍的価値を求める――中国現代思想の新潮流』」(『東方』477号、2020年)
砂山幸雄「見失われた「1989年」――ポスト冷戦期中国の思想文化動向(1989-2012年)――」(『思想』第1146号、2019年)
滝田豪「現代中国のアイデンティティと「伝統」――近代政治思想と儒教」(『京都産業大学世界問題研究所紀要』第30号、2015年)
中島隆博『中国哲学史――諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中公新書、2022年)
福嶋亮大『ハロー、ユーラシア――21世紀「中華」圏の政治思想』(講談社、2021年)
福嶋亮大「天下主義以降の趙汀陽哲学」(『中国21』第60号、2024年)
白永瑞(趙慶喜監訳/中島隆博解説)『共生への道と核心現場――実践課題としての東アジア』(法政大学出版局、2016年)
劉軍寧「自由主義与儒教社会」(『中国社会科学季刊』第3巻、1993年)