Commentary
アクチュアルなものとしての伝統
現代中国知識人の儒教に関する議論から学べることは何か?
自由主義的立場にたつ知識人たちが中国の伝統を語る背景には、さまざまな要因が存在している。そもそも中国共産党が伝統を重視するようになる中で、反伝統を強調するタイプの議論はしにくくなっているということもあるかもしれない。ただ、筆者がここで注目したいのは、こうした知識人の次のような意識である。すなわち、真に普遍的な価値を中国に根づかせるには、やはり中国から出発しなければならないという意識であり、その背後にある、中国人である以上、中国の伝統から逃れることはできないのだという深刻な自己認識である。
むろん容易に見てとれるように、こうした〔儒家の〕賢能代表説や制度は、家父長制的傾向を比較的強く有するもので、ひいてはあまり望ましいものではない。問題は、われわれが当分の間この伝統を放棄することができそうにないということである。それができない以上、われわれは、賢能代表制を〔英米のような〕利益代表制と結びつけ、賢能代表制には利益の表明のための有効な制度的ルートを提供させるとともに、知的エリートには積極的かつ自発的に才能を発揮させたほうがよい。二つの方法〔賢能代表制と利益代表制〕で社会の利益をよりよく調整できれば、いっそう大きな成果が得られるかもしれない(劉1993:103頁。〔 〕内は筆者による補足)。
わたしが新天下主義という言葉を用いると、どうしてあなたはコスモポリタニズムや世界主義を使わないのかと問われます。しかしそれらはやはり西洋の概念なのです。最近の中国では洋学原罪論、つまり西洋の学問、あるいは西洋の術語を使うと、すぐに批判される風潮が高まっていることもあり、そういう人たちに応答するためにも中国伝統にあるものから考えてみようと思ったのです。新天下主義はまさに中国の伝統にある普遍的なものを抽出して証明しようというものです(許2020:318頁)。
彼らのこのような発言には、自己の伝統の重みを自覚し、それに対して責任を持つという意識が表れているように筆者には思われる。
むろん、現代中国知識人の考える伝統が、そもそもどの程度史実を反映したものなのかといった点については、今後も検討を深めていく余地はあろう。また本稿で注目した伝統の批判的な継承であれ、中国の伝統を再評価すること自体が、中国中心主義や現在の中国の国策と重なってしまうことへの懸念は生じうるだろう。
ただ、現代中国知識人の自己の伝統との関わりが、今後も、現代中国のあり方を考える際に重要な論点であり続けることは間違いないであろう。また本稿では、普遍的な価値を自国に根づかせるため自己の伝統を内在的に批判するという中国知識人の姿勢に注目した。このような姿勢は、同じく普遍の問題を考えざるをえない日本で生きる人びとにとっても、学ぶべき示唆に富んだものであると筆者は考えている。
参考文献:
石井知章編『現代中国のリベラリズム思潮――1920年代から2015年まで』(藤原書店、2015年)
大西広「中国の「保守的自由主義」は真の普遍たりうるか――許紀霖の非マルクス主義的普遍主義を批判する」(『社会主義理論研究』3巻1号、2023年)
緒形康「大陸新儒家の34年」(『中国21』第60号、2024年)
干春松(小野泰教訳)「21世紀初頭中国大陸における「儒学運動」の理論構想およびその評価」(『中国伝統文化が現代中国で果たす役割』UTCP、2008年)
許紀霖(中島隆博/王前監訳)『普遍的価値を求める――中国現代思想の新潮流』(法政大学出版局、2020年)
志野好伸「書評:弱い普遍性の探求――許紀霖著、中島隆博・王前監訳、及川淳子・徐行・藤井嘉章訳、『普遍的価値を求める――中国現代思想の新潮流』」(『東方』477号、2020年)
砂山幸雄「見失われた「1989年」――ポスト冷戦期中国の思想文化動向(1989-2012年)――」(『思想』第1146号、2019年)
滝田豪「現代中国のアイデンティティと「伝統」――近代政治思想と儒教」(『京都産業大学世界問題研究所紀要』第30号、2015年)
中島隆博『中国哲学史――諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中公新書、2022年)
福嶋亮大『ハロー、ユーラシア――21世紀「中華」圏の政治思想』(講談社、2021年)
福嶋亮大「天下主義以降の趙汀陽哲学」(『中国21』第60号、2024年)
白永瑞(趙慶喜監訳/中島隆博解説)『共生への道と核心現場――実践課題としての東アジア』(法政大学出版局、2016年)
劉軍寧「自由主義与儒教社会」(『中国社会科学季刊』第3巻、1993年)