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Commentary

アクチュアルなものとしての伝統
現代中国知識人の儒教に関する議論から学べることは何か?

小野泰教
学習院大学外国語教育研究センター教授
社会・文化
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現代中国の知識人たちは、中国の伝統をいかに捉え、どう自己の思想に位置づけていくのかという課題に取り組んできた。写真は山東省曲阜市にある孔子廟を見学に訪れた生徒たち。2024年4月(共同通信社)
現代中国の知識人たちは、中国の伝統をいかに捉え、どう自己の思想に位置づけていくのかという課題に取り組んできた。写真は山東省曲阜市にある孔子廟を見学に訪れた生徒たち。2024年4月(共同通信社)

また時期は下るが、近年その著作が日本語訳もされた許紀霖(きょきりん)は、2010年代に、自由主義や中国の伝統について以下のような形で論じている(許2020)。自由主義は、政治的な「正しさ」を実現できる反面、倫理的な「善さ」を求めることについては十分な回答ができていない。自由主義はその点を克服するために、倫理的な「善さ」を問うてきた枢軸文明(カール・ヤスパースの概念)に自身の根を見出すべきである。その枢軸文明の一つこそが、儒教を含む中国の文明であった。

さらに許の議論で有名なのが、こうした彼の自由主義観とも関連する「新天下主義」の提唱である。許によれば、中国には本来、国という特殊を超えた普遍としての天下を追求する思想があった。その思想の制度的な表れは、中華帝国の統治制度であり、朝貢体制であった。中華帝国の統治制度においては、皇帝の直接統治が行われる地域には郡県制が敷かれ、周辺の民族に対しては分封(ぶんぽう)、羈縻(きび)、土司(どし)などの地方統治制度を通じ一定の政治的自主性が認められた。また朝貢制度においては、各国間の互恵や、倫理的な「義」に基づく貿易の往来が重視されたとする。

もちろん許は、こうした天下概念に基づく中華帝国の制度を、そのまま現代に復活させようとしているのではない。伝統的な天下概念は、中華を中心とする発想やヒエラルキー思想を有しているからである。そこで現代においては、旧来の天下概念を「脱中心化」・「脱ヒエラルキー化」したうえで、天下概念本来の特徴である普遍の希求を継承しつつ、対内的には諸民族・諸地域の多元的共存を、対外的には諸国家の相互承認による多元的共存を目指していくべきであるとする。より具体的には、EUをモデルとする「東アジア運命共同体」を構想している。

3.伝統の重みに向き合う批判的精神

このように現在の中国では、さまざまな知識人たちが、中国の伝統との関わりをアクチュアルな課題として捉え、思索や実践の糧(かて)としている。こうした知識人たちの知的営為はいずれも真摯(しんし)なものとして評価できるが、筆者は特に、先に紹介した自由主義的立場にたつ知識人たちの中国伝統との関わり方に注目してみたい。

こうした知識人の議論に共通すると思われる特徴は、儒教に注目する場合でも、そこにある種の批判的精神が見出されることである。例えば、劉軍寧の見るところ、儒家の思想にも自由主義学説で重要視される、代表制度に関する主張が含まれている。ただし、自由主義的な代表制度が、下から上へと利益要求を表明する利益代表制であるのに対し、儒家は、上から下への利益の分配を行う賢能代表制を取り、個人は受け身の受益者に過ぎなくなるという。また儒家的な賢能代表制が家父長制的な傾向を持つとも指摘する。孟子の民本(統治者が民のために政治を行うこと)・革命といった発想についても、西洋的な民主との違いや制度的な裏付けの無さなどを指摘している(劉1993)。

許紀霖は、前述の通り、天下概念について新・旧を厳密に区別し、旧来の天下主義の問題点として次の点をあげている。

伝統的な天下主義は、中華を中心とした同心円をなすヒエラルキー的な権力/文明の秩序である。新天下主義がまず初めに切り捨てるべきは、この中心とヒエラルキー化された秩序である。……新天下主義が解消したいのは、こうした伝統的な天下主義と各種の枢軸文明に共通する、核心となる民族から全世界へ、中心から周縁へ、単一の特殊性から同質の普遍性へと上昇する文明の構成それ自体である(許2020:60-62頁。「……」は筆者による省略)。

以上のような儒教に対する批判的な視点は、同じく儒教に注目する国家主義や新儒家の知識人たちが、儒教から現代に適応可能な要素を選択したり、あるいは儒教的価値を直接現実社会に実現させようとしたりするのとは、異なる特徴を持ったものであるといえる。

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