Commentary
肉食の女神の庇護のもとでビールを飲む
中国とインドの農村社会の比較③
肉食の女神たち
飲酒のための一つの方法は、すでに述べた通り、村を抜け出して田舎町のリカー・ショップやバーに行くこと。もう一つは、村内の「闇市」から仕入れることである。村には表立って酒類を販売している店はない。そこで、シュリニバスに頼んで、彼の知り合いの「お茶汲み坊主」のような少年をどこかに使いにやらせる。坊主は筆者から金を受け取ると夜の闇の中に消えていく。店がどこにあるのか、筆者はいまだに知らない。しばらくすると、少年はどこからか、紙袋に包んだインド産ビール「キング・フィッシャー」を2本、抱えて戻ってくる。しっかり冷えているので、感動する(2014年当時、村の中で、冷蔵庫を持つ店や家庭はごく少数だった)。インドの乾期、4月から6月までは最も暑い時期で、午後の気温は連日40度に達する。そんな日の終わりに、冷えたビールにありつけるのは極楽のようである。
酒が手に入ると、シュリニバスとともに、人目につかない場所を探す。それは放課後の彼の学校だったり、原っぱだったり、カーストの祠(ほこら)のそばであったりする。なぜ、カーストの祠か?ここでは、やや説明が必要だろう。
実のところ、インド農村には無数の神や女神が存在しているが、神々の間にはベジタリアンの神とノン・ベジタリアンすなわち肉食の神の区別がある。たとえば、村の中央にあるハリハラ寺院に祀られているのはベジタリアンの神である。このような「浄」の場所での肉食や飲酒はあり得ないことである。いっぽう「ノン・ベジ」つまり肉食が可能な神(女神)が祀られた祠の脇では、動物の生贄の儀式や肉入りのカレーが供されるカーストの会食が挙行されうる。
2023年現在、村の24のカーストのうち、比較的人数の多い九つのカースト・グループ(そのうち二つはムドラージの下位グループ)については、自分たちが信仰の対象とする独自の女神を祀った祠を保有している。これらの女神は基本的に「ノン・ベジ」である。人々が密やかに飲酒することを許してくれるのも、こうした「ノン・ベジ」の女神たちである。筆者がシュリニバスとよく訪れたのは、そうした場所の一つ、羊飼いカーストであるクルマの信仰する「バヤナ」(Bhayyanna)という女神の祠だった。そうした「ノン・ベジ」の女神は大抵、村外れの農地の中の、ガジュマルの木が生えているような場所に祀られている。テランガナ地域でしばしば見掛ける巨石が据えられている場合もある。
社会的飲酒が存在しないインド(農村)では、飲酒は全て個人的である。インド村落的な文脈では、飲酒はアンダーグラウンドでのみ存在しうる。ロシアの男たちにまだしも社会的飲酒の機会が残されていたのと異なり、内面に向かっていくだけのインドの個人的飲酒者は全く「楽しそう」に見えないことも多い。ラマヤンペットの薄汚いバーで、一人、ウイスキーをあおっていたサリーの中年女性の姿が筆者の脳裏を離れないのは、それが社会的な破滅に向けて一歩一歩、彼女が進んでいく予感を覚えさせるからであろう。
振り返ってみれば、爆竹が鳴り響く中で、豊富な魚介類を含む12皿の料理で埋め尽くされた中国農村家族の宴席の場は、誰もが卓を囲むことを許されるという意味で、中国的社会関係の濫觴(らんしょう)のようにも思えてきた。