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Commentary

肉食の女神の庇護のもとでビールを飲む
中国とインドの農村社会の比較③

田原史起
東京大学大学院総合文化研究科教授
社会・文化
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インド農村には無数の神や女神が存在しているが、神々の間にはベジタリアンの神とノン・ベジタリアンすなわち肉食の神の区別がある。写真は肉食女神の祠前での会食(2014年、インド南部・テランガナ州ペダマラレディ村にて田原撮影)
インド農村には無数の神や女神が存在しているが、神々の間にはベジタリアンの神とノン・ベジタリアンすなわち肉食の神の区別がある。写真は肉食女神の祠前での会食(2014年、インド南部・テランガナ州ペダマラレディ村にて田原撮影)

共食と個食

 「中国の農村での棟上げ式と大宴会」に見た山東省や、中国南方農村の多くでは、大皿に盛られた種々の料理をそれぞれが摘(つま)んで、飲酒しながらのミニ宴会が村中のあちこちで日々、展開している。参加人数が増えれば増えるほど、料理の種類も増え、最大で12皿ほどになりうる。宴会に参加するのに資格による制約はほとんど存在しない。異なる地域や階層の人々が参加することも可能で、むしろ保有する社会的資源が異なる人々の間で共食が起こればこそ、将来の資源交換を見越した新しい社会関係開拓のメリットも生じてくる。

 インド農村の食事は、基本的に主食にカレーをかけて食べる、ということに集約され、一枚のプレートが「小宇宙」を構成している。日常的な食事だけではなく、結婚式などでのハレの食事であっても基本は同じ。カレーは、米やチャパティなどの「主食」を食べるためにあるのであって、おかずなどというものではない。ラクシュマンの父親などの食べ方を見ていても、大量の白米にごく僅かなカレーをかけている。村の貧困層の場合、カレーを作る余裕がない場合には塩と緑唐辛子だけで主食を食べることもあるらしい。

 このように、インド農村の食事は他人や、ましてや社会を必要としない個人的な営為である。人は主食に意識を集中するので、他者の存在は必要がなくなる。ここから中国のように、決まった時間に皆で食事をする習慣がなくなり、家族の中でも、食べる時間がバラバラである。空腹になったら随時、一人で食べる。筆者のホームステイ中も、しょっちゅう、“Are you hungry?”と聞かれるので、食べるか食べないか、その都度考えねばならず、飲酒できないストレスとも相まって辟易したものである(食事のリズムで一日の時間を区切る中国人との世界観の違い!)。食べれば食べたで、“Take more rice! ”と勧められる。「俺は育ち盛りの中学生じゃないんだぞ!メシじゃなくて酒だ、酒だ!酒もってこい!!」と腹の中で、酒乱亭主のように叫んだものだが、好き好んでインドの村に潜り込んでいる手前、そこでヤケを起こすわけにもいかない。

 ここで再び菅野美佐子氏の教示によれば、インド農村の個食にはまた別の意味もある。それは、他者との唾液の混交が禁忌とされる点に絡む。すなわち、同じ皿の料理を箸でつつく中国や日本のスタイルはインドの文脈では不浄を招く行為となってしまう。家族でもバラバラに食事を取るのは、給仕係が必要となるためである。インドでは食事に右手を使うが、自分の唾液がついた手で他の家族も食べるご飯やロティ、おかず(カレー)に触れること、あるいは共有のしゃもじやおたまに触れることはマナー違反となる(かといって不浄である左手を使うわけにもいかない)。したがって、大体は家族の男性が先に食べ、女性は男性がおかわりをする際にご飯やロティ、カレーを皿に盛り付ける役をする。女性は代わる代わる食べ、交代で盛り付け役を果たす。

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