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Commentary

分節化していくインド農村社会
中国とインドの農村社会の比較②

田原史起
東京大学大学院総合文化研究科教授
社会・文化
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インド農村の食事は、基本的に主食にカレーをかけて食べることに集約され、他人や社会を必要としない個人的な営為である。写真はプレートの上の小宇宙(2013年、インド南東部・オリッサ州にて田原撮影)
インド農村の食事は、基本的に主食にカレーをかけて食べることに集約され、他人や社会を必要としない個人的な営為である。写真はプレートの上の小宇宙(2013年、インド南東部・オリッサ州にて田原撮影)

 そんな中で、店内にはたった一人、女性客の姿があった。サリーを纏(まと)った小柄な中年女性、というくらいしか分からない。男たちのいるテーブルからは距離を置いて、バーの入り口に近いところで、壁に向き合うようにしゃがみ込んでいる。いかにも場違いだな、と感じた瞬間、女性は片手に持った透明なポリエステルのコップをあおり、頭部をグーッと仰け反らせてその液体を流し込んだ。

 いま、これを書くにあたって、実のところ、記憶がやや曖昧になっている。この時、女性はウイスキーを瓶からラッパ飲みしていたような、そんな朧(おぼろ)げな印象もあるからだ。だとすれば、状況はさらに凄惨さを帯びてくる。

 男性が表立って飲酒するのも憚(はばか)られるぺダマラレディ村で、女性が飲酒する姿はついぞ見たことがない。このような女性の姿は、村の中ではけして目にすることはできない。女性は周囲の村の人だろう。村の文脈を抜け出し、男たちの集まるこのようなむさ苦しいバーに来てまで飲まざるを得ない、どうしても欲望を抑えきれない女性がいること自体、インド的文脈における飲酒の罪深さの感覚と、社会的「非」飲酒文化が個人的飲酒者を周縁化せざるを得ない構図を示していないだろうか。

 菅野美佐子氏(青山学院大学)の教示によれば、インドでの飲酒の文脈には、低階層の人々が、過酷な労働、低賃金、空腹、疲労などを忘れるための一時的な幻覚剤、つまり大麻や覚醒剤、シンナーなどと同列に位置付けられる側面があるという。そのため、自我や記憶をなくすまで酔っ払う、タチの悪い飲み方をする人も多い。この説明を聞いた時、ラマヤンペットのバーの雰囲気が想起され、ストンと得心がいった。

ゲームのルール

 中国農村の調査では、村に入った際には、家族とはいわないまでもせいぜい農民家族の私的な客人くらいにはみなされるべく、人々と酒を酌み交わしてきた。中国では、調査地の人々に、できるだけフランクに語ってもらえるような関係を築くために、一緒に食べること(共食)が何よりも重要だ。社会的飲酒もその延長線上にある。親しくなる前にズケズケと質問をするようなことは避け、まずは共食を通じて身内に近い関係になるように注意を払う。

 いっぽうロシアでは、農村の住民でも「インタビュー」を受け慣れている印象を受ける。彼らからは、酒で仲良くならなくても、聞かれたことにはできるだけ正直に応えようとする生真面目さ、を感じる。だが、普段は仏頂面を崩さないように見える彼らが、ある瞬間に破顔一笑するのは、やはりさりげなくそこに置かれているヴォトカの効果によるところが大きかった。ロシア農村では、ヴォトカには特別な力が宿る。

 インド農村では、中・露で通用したこうした「ゲームのルール」が通用しない。最初はめんくらったし、実は現在でもめんくらい続けている。社会関係の構築において、飲酒が、さらには同じテーブルを囲むという意味での共食が、役割を果たしえないのである。インドでの「共食」は、同じ竈(かま)で作られた料理を食う行為として捉えられ、同じ場で、同じ時間に「一緒に食べる」ことを意味しないようなのである。

 さらに、社会的「非」飲酒者であるインド農村住民の世界は、まるで子供が一緒に遊んでいるうちに自然に仲良くなるのにも似て、社会関係の構築に飲酒の力を必要としない。エンドレスに続くかに思えるお喋りの応酬が、その代わりを果たしているようにも見える。心の垣根が恐ろしく低いように見える一方で、時間をともにすることで親しみが倍加していくような実感もない。社会関係の原理そのものが、中国農村とは異なっているらしい。

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