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Commentary

中国の農村での棟上げ式と大宴会
中国とインドの農村社会の比較①

田原史起
東京大学大学院総合文化研究科教授
社会・文化
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調査地の一つである山東省の果村は、筆者にとって中国農村や中国社会のなんたるかを様々な側面から教えてくれた、「教室」のような場所である。写真は共同作業後の宴会料理(2006年、山東果村にて田原撮影)
調査地の一つである山東省の果村は、筆者にとって中国農村や中国社会のなんたるかを様々な側面から教えてくれた、「教室」のような場所である。写真は共同作業後の宴会料理(2006年、山東果村にて田原撮影)

 ある社会で「当たり前」のことが別の社会では当たり前でない。考えてみれば、この道理自体「当たり前」であるが、一つの対象地域に惚れ込んで地域研究をしていると、存外、その地域の特性が見えなくなってしまうこともよくある。たとえば中国社会の特徴を大きくつかもうとする際には、巨大な農業社会として多くの歴史社会的前提を共有するインドと比較するのが有意義だろう(中根千枝『中国とインド』)。

 新しい地域に踏み込もうとする際、こまごまとした「地域研究的」な予備知識はあまり必要ないかと思う。中国農村で慣れ親しんだフィールド・ワークのスタイルをインドの農村に持ち込もうとするとき、どのようなノイズが立ち上がってくるのか、まずはそこに耳を澄ませばよい。フィールド・ワーカーが新しい土地でおそらく真っ先に気づくのは、飲食のあり方の差異である。その違和感に向き合った瞬間、社会の比較が始まる。

 以下、まずは中国の現場に遡(さかのぼ)り、山東半島にある果村から説き起こそう。

棟上げの日

 中国大陸から朝鮮半島に向かってまるでツノの如く渤海に突き出した山東半島。その半島の北端に蓬莱市がある。中国には同じ「市」といっても、直轄市、地区級市、県級市と三つのレベルがある。蓬莱市は、元々は「県」であった、すなわち県級市に属する。

 調査地の「果村」は蓬莱市の中央付近にある。当地としては平凡な村であるが、筆者にとっては特別な存在である。中国農村や、もっといえば中国社会のなんたるかを様々な側面から教えてくれた「教室」のような場所だからである。とすれば、そこに住む村民たちは、さながら自分にとっての「先生たち」だったことになる。

 2000年代の果村では、農閑期である夏に家屋を新築する世帯が多かった。経済の発展した沿海部に属し、若者の就業機会も多い果村では、内陸農村のように長期にわたって村を離れ、遠隔地まで出稼ぎに行く必要はない。20代後半から30歳くらいで息子たちが身を固めるタイミングで、村の中に若夫婦の家を新築するのである。30歳代の若い村民が村に残っているから、村全体に「活気」のようなものが感じられる。

 筆者が村に滞在中であった2006年8月16日、家屋新築中の「棟上げ」の行事を控えた世帯が近隣に二軒あった。果村での筆者のホームステイ先は「兄貴分」の池道恵さん宅。村内に10ある村民小組のうちの第9村民小組で、棟上げの世帯も同じ村民小組に属している。村民小組の前身は人民公社時代の「生産隊」。ある種の運命共同体であり、血縁者も多く含まれ、普段から濃密な付き合いが見られる。果村の場合、村民小組が果物畑の灌漑(かんがい)などでも一つの重要な管理主体をなしているため、余計に重要な単位として残り続けている。

 果村の家屋新築をめぐっては、「手伝い」(帮忙)と「棟上げ」(上梁)という重要な二つの節目の日がある。いずれもが村民小組内の近隣や友人などが参加しての共同作業の機会であり、午前中の共同作業の終了後には、主家において宴席が設けられる。

 朝9時、二軒が同時に爆竹を鳴らし始め、花火も打ち上げられる。全村に響き渡る音が、祝祭の日の気分を盛り上げる。

 もっとも、中国の農村ではかなりの頻度で爆竹や花火の音を聞くので、村民は慣れっこである。棟上げの日は、村内で主家と特別に関係の良い世帯が集結して建築作業を手伝い、大きな一本の梁(はり)をロープで吊り上げる棟上げが挙行される。そこに主家の主人が参加して、紙銭を燃やすなどの簡単な儀式が伴う。梁が屋根に固定される瞬間は、爆竹と花火が最高潮に達する。とても賑やかだ。

家屋新築時、近隣住民間の手伝い(幇忙)(2006年、山東果村にて田原撮影)
家屋新築時、近隣住民間の手伝い(幇忙)(2006年、山東果村にて田原撮影)
家屋新築時、棟上げ(上梁)の儀式(2006年、山東果村にて田原撮影)
家屋新築時、棟上げ(上梁)の儀式(2006年、山東果村にて田原撮影)

 これは中国全土の農村に共通だが、冠婚葬祭や祝事には賑やかな爆竹を欠かすことができない。といっても、日本人が「爆竹」と聞いてイメージする「パチン」と弾けて終わる可愛いものではない。成人男子一人がやっと抱えられるほどの大きさの立方体の箱に、とぐろを巻いた蛇のような長く太い爆竹が何層にわたって詰め込まれた、そのような代物である。これが鳴り始めると、耳をつんざく破裂音が数十秒間、継続する。招待客はご祝儀と並んで、花火や爆竹を主家に送る場合もある。果村の棟上げの花火も主家の親戚や友人が送ったものであり、1セットで100元(約2000円)ほどもするそうだ。

 棟上げでは、日本農村にもかつてあった、「餅投げ」に似た行事も展開する。広島の農村少年であった筆者の幼少期、家屋新築中の農家の田圃で「餅投げ」に参加した記憶が蘇る。1970年代のことだ。棟上げの日、新築中の屋根の上から、借り入れの終わった田圃に集まった近隣の人々に、餅のみならず、蜜柑など果物や菓子などが「おりゃ〜」の掛け声とともにばら撒かれる。子供らや女性らがなりふり構わず、拾い集め、時には見境なく奪い合う。子供らは特に菓子を狙う。山東果村の棟上げでは、投げられるのは餅ならぬ赤く色付けされたマントウ(花馍)と飴であるが、「奪い合い」の情景は実家での記憶と寸分違わない。

宴席:共食と社会的飲酒

 棟上げの儀式が終了すると、主家の自宅での宴席に移る。道恵によれば、宴会の規模すなわちテーブル数は、北の世帯が9卓、南の世帯が14であった。南の場合は一箇所にそれほど多くの卓を置くスペースはないため、14卓は3部屋ほどに分かれていた。筆者らが通された部屋には5卓が詰め込まれている。身内らしき女性たちのテーブルが2卓。男性の卓と女性の卓は区別されている。

 中国農村では、こうした小規模の宴会よりも大掛かりな冠婚葬祭などの際、よく「100卓の宴会」を開いた、などのいい方をする。だがそうした場合、一箇所に100卓を並べたという意味にはならない。これらの宴会は通常、入替制をとる。農家の敷地の広さは限られているので、一度に並べられるのは10卓に過ぎなかったりする。だから、100卓の宴会の場合はこれを入替制で10ラウンド繰り返すのである。1テーブルに8人から10人座れるとして、ざっと800人の客を招くことになる。

 日本農村社会学の始祖、鈴木榮太郎は、日本の農家の座敷のスペースの限界が宴席の規模、ひいては一農家が接触しうる社会関係にまで影響する点を指摘している(『日本農村社会学原理』)。ところが、中国農村のような入替制を採用すれば、空間の制限を克服でき、その分、社会関係は一気に広がるイメージとなるだろう。

 宴会のやり方でも、宴席文化の発展した山東では、他地域では特に気にすることのないトリビアを重視する場合がある。その一つが、料理の皿数が偶数でなければならない点。特に、客人を招くような宴席では、8皿、10皿、そして今回の棟上げや冠婚葬祭では12皿をもって最高レベルの宴席とする。12は2でも3でも4でも6でも割り切れ、良い数字である。普段から偶数を偏愛するので、日常的な料理でも3皿では落ち着かず、イチゴをおかずに見立てて4皿にする、なんてこともある。

 中華のコースで魚料理が最高の目玉として供されるにはよくあることだが、果村では魚の頭の向きにも意味がある。尊敬の意を表し、テーブルを囲んだ人の中でも主賓の方に魚の頭を向けなければならない。頭が向いた客と尻尾が向いた客が杯を合わせて一杯飲む、などという習慣もある。

 こうして中国農村の人々は、基本的に「社会的飲酒者」である。社会的飲酒者とは、基本的に共食をベースとした社会関係拡張の手段として飲酒が位置付けられているような人々である。このような人々は、他人との交流を伴わない一人酒を必要としない。これに対し、交流の手段として飲酒もするが、一人酒を嗜(たしな)む人々は「個人的飲酒者」と呼ぶことができる。

 ――上記のような中国での農村調査を常としてきた著者がインドの農村で何を見たか?続きは「分節化していくインド農村社会」で。

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