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Commentary

ソ連崩壊後のモスクワで、資料調査に奮闘する
中国共産党史研究者による回想録②

楊奎松
北京大学教授(定年退職)、華東師範大学「紫江学者」
社会・文化
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著者は1993年9月にモスクワを訪れ、市内各地の文書館で資料調査を行った。写真はソ連共産党機密文書のコピー(共同通信社)
著者は1993年9月にモスクワを訪れ、市内各地の文書館で資料調査を行った。写真はソ連共産党機密文書のコピー(共同通信社)

再び、あわや銃弾に

 私がモスクワに着いたときには、エリツィン大統領と国会の間での「内戦」がもう始まっていた。しかし、毎日忙しくしていた私は、モスクワで何が起きているかを全く気にしていなかった。もちろん、これはおそらくロシアの政治的動乱によく見られる特徴の一つでもあり、政治のことを気にしている人は、特定の時間に特定の場所で、政府と対抗したり衝突したりするが、その時間や場所にいなければ、都市全体はいつも通り平穏なのであった。毎日、私は滞在先と文書館の間を行き来するばかりで、地下鉄に乗っているときであろうと、歩いているときであろうと、この期間に騒ぎを起こしている人を見かけることは全くなかった。みんないつも通り仕事に出て、文書館も相変わらず外部に開放されていたのだ。10月4日の朝、私はそれまで通り9時前に文書館に来て、門が閉じられていることに気付いた。このときになってようやく、エリツィンが前日夜に非常事態宣言をして、モスクワ全体が動きを止めたことを知ったのだった。

 エリツィンが軍を派遣して最高ソヴィエト(すなわち国会)のある議事堂(すなわち「ホワイトハウス」)を包囲しようとしていると分かると、目で見て確かめることを常とする私は、すぐに地下鉄に乗ってその場へ急いだ。私が議事堂の向かい側に来たとき、ちょうど将校が厳戒態勢の兵士たちを議事堂下の川岸の歩道に配置させつつ、メガホンで議会に向かって大声で叫んでいるのが見えた。対岸に立っていては、議事堂の窓の中にいる人が何をしていて、何を叫んでいるのかが分からないので、橋をわたって対岸の歩道の上の坂まで走り、横からしっかり見ようとした。そのとき、思いがけず、議事堂の高層階の左側のいくつかの窓から突然閃光(せんこう)が放たれ、バンバンという銃声が鳴るのが聞こえた。頭上を銃弾が「ヒュン」とかすめたのをはっきりと感じ取り、私はすぐに草地に伏せた。数分と経たないうちに、今度は数台の戦車が轟轟(ごうごう)と議事堂正面の歩道を登ってきた。間もなく、戦車の銃口が議事堂へと向けられ、さきほどから射撃が続いていた窓やその外壁に向けて、発砲しはじめた。面白いことに、砲弾が壁に当たっても、くぐもった「パン」「パン」という音がするだけで、目でも白い煙が立つのが見えるだけなのだ。後になって「ホワイトハウス」の上部が完全に黒くなっている写真を見たが、どのようにしてそうなったのか全く分からない。

 私は(1976年と1989年の)二度の天安門事件を、身をもって経験した。二度目の際は、妻と子を連れて家を出たばかりの若い男性が、私のすぐそばで見物をしていたのだが、200メートル離れた長安街から放たれた流れ弾が彼に当たり、命を落としたのであった。なんと、そのときもかろうじて死を逃れ、今回もまたすんでのところで助かったのだ。

 比護遥(日本学術振興会特別研究員PD)訳

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