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Commentary

ソ連崩壊後のモスクワで、資料調査に奮闘する
中国共産党史研究者による回想録②

楊奎松
北京大学教授(定年退職)、華東師範大学「紫江学者」
社会・文化
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著者は1993年9月にモスクワを訪れ、市内各地の文書館で資料調査を行った。写真はソ連共産党機密文書のコピー(共同通信社)
著者は1993年9月にモスクワを訪れ、市内各地の文書館で資料調査を行った。写真はソ連共産党機密文書のコピー(共同通信社)

戦いのような日々

私は1993年9月16日夜、モスクワにたどり着いた。シェビレフが空港まで私を迎えに来て、マクシムさんが貸してくれたアパートまで送ってくれた。道すがら、コミンテルンと中国の問題についての資料集を協力して出版するプロジェクトを、ベルリン自由大学とも相談して進めており、うまくいっているということを知った。双方の協力においてまず目録を作るのはシェビレフだという。研究所において、初期コミンテルンの文書の状況について最も詳しいのは、彼だからだ。

次の日、シェビレフの勧めに従い、私は科学アカデミーに出向き、チタレンコ所長と面会して、さらにグリゴーリエフ教授と資料集について議論もした。私はついでに、科学アカデミーの図書館も見てみたいと思っていた。そこには中国共産党第六回党大会の会議記録が収蔵されているということを、初日の夜に迎えに来てもらったときに、シェビレフが教えてくれたからだ。これは何といっても意外で重要な情報である。しかし、その日の午後は、息つく間もなくロシア連邦外交史料館(AVPRF)へと急がねばならなかった。ウェスタッドは、この半年間のうちに、ロシアとアメリカのそれぞれに両国の著名な教授からなる編集委員会を作っており、ロシアの機密解除文書に関わる研究プロジェクトと出版計画を8つ立ち上げるとともに、イエール大学出版社と出版の手はずを整えていた。そのために、同館副館長のイゴール・ブハルキン(Igor Bukharkin)と中国関連の機密解除の責任者であるクズメンコ(Kuzmenko)に会いに行くよう、ウェスタッドから頼まれたのであった。話し合ったのは、私が参加することになった中ソ同盟の形成に関するもう一つの研究プロジェクトについてで、ロシア連邦外交史料館の機密解除文書をどう使うかについて意見交換をした。

これらは決して複雑なことではなさそうなのだが、のんびりとしたロシア人の手にかかると複雑になってしまい、結果としてその翌日の土曜日も使うことになってしまった。特に厄介だったのはグリゴーリエフ教授が渡してきた資料目録で、その半分近くはロシアや中国で既に発表されたものだったのだ。私はそれ以前にもウェスタッドを通して2度意見を伝えており、そのたびに少しばかり調整してくれたのだが、十分な資料を補ってほしいという私の要求に対しては、ほとんど解決策が示されなかった。シェビレフによれば、実のところ、グリゴーリエフ教授はふだん公文書館で「粘る」時間がほとんどないのだという。そんなこんなで、ようやく空いた日曜日は、部屋から出ることもなく、月曜日にロシア現代史文書保存・研究センターに行く際に解決しなければならないさまざまな問題の準備に、一日中いそしむことになった。

率直に言って、コミンテルンないしモスクワと中国共産党の関係を調べる研究者にとって、この文書館はまさに宝庫である。私は9月20日の午前に文書館の入り口をくぐって以降、毎日最も恐れていたことは、閲覧を終える準備するようにと管理員が午後4時半に鳴らすベルの音であった。なぜなら、毎日午前9時に閲覧室に入ってから午後5時に閉館するまで、昼休みや申請書の記入など出納にかかる時間を除いて、実際に閲覧や公文書の抜き書きに使える時間は、多く見積もっても5時間しかなかったからだ。さらに、私はロシア語を読む際にほとんど辞書に頼り切っており、もしもすべて読み、訳して、抜き書きしようとすれば、丸一日かけても一つの文書さえ終わらないであろう。

この点、シェビレフには大いに助けられた。彼の手助けが必要なときには、ほとんど必ずやって来てくれた。もちろん、コミンテルンと中国に関わる公文書は、多くはロシア語であるが、英語のものもあり、さらに中国語のものも少なくなかったことにも助けられた。このような事情があったから、私はなるべく合理的に時間を調整して、シェビレフにあまり頼りすぎず、できるだけ彼の本来の仕事に影響を及ぼさないようにすることができた。

私の主たる任務は、グリゴーリエフの作った目録をもとにして、コミンテルンと中国共産党の関係史において不可欠なカギとなる文書を補足することであった。基本的にはロシア語のものなので、まずは1週間余りの時間をかけて、各時期の文書目録を大量に見て、役に立ちそうな文書が見つかれば、すぐに取り寄せた。一通り取り寄せてから、シェビレフにざっと見てもらい、だいたいの意味を聞いた上で、役に立つかどうかを判断した。私が役に立つと考えたものについては、すぐに申請書を書いて管理員にコピーしてもらった。当時、1941年以降の多くの公文書はまだ機密解除されていなかったものの、グリゴーリエフの目録に補足できる少なくとも1941年以前の文書については、基本的にすべてコピーをした。同時に、シェビレフに手助けしてもらいながら、1942年以後の歴史的に重要な文書を、いくつか機密解除するよう館側にお願いした。

これが済んでから、私は自分が関心をもついくつかの事件についての史料の調査に移った。この方面のコミンテルンの公文書には、514番や530番のファイルなど、中国共産党が提出した報告や会議記録、電報のやり取り、あるいは東方勤労者共産大学やモスクワ中山大学(いずれもモスクワに設置された大学)の中国人の中で起きたことについてのものが少なくなく、そのため中国語の資料が多い。しかし、これらの資料調査はウェスタッドの計画に含まれるものではなく、数も多いので、彼から提供されたお金でコピーするわけにはいかず、できるかぎり抜き書きをするしかなかった。調査を終えるまでの10日余りで、小さな文字で2冊の分厚いノートを埋め尽くし、数百ページにもなった。

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