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Commentary

ソ連崩壊後のモスクワで、資料調査に奮闘する
中国共産党史研究者による回想録②

楊奎松
北京大学教授(定年退職)、華東師範大学「紫江学者」
社会・文化
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著者は1993年9月にモスクワを訪れ、市内各地の文書館で資料調査を行った。写真はソ連共産党機密文書のコピー(共同通信社)
著者は1993年9月にモスクワを訪れ、市内各地の文書館で資料調査を行った。写真はソ連共産党機密文書のコピー(共同通信社)

「幸運」はあまりにも早く

 「思いがけず」とは言ったものの、それを狙っていなかったというわけではない。1980年代初頭以降、「コミンテルンと中国革命の関係」についての研究は次第に注目を集め、私たちとロシアや欧米の歴史学者との間の交流は日増しに頻繁になっていた。とりわけ、1986年にソ連科学アカデミー極東研究所が編纂(へんさん)した『コミンテルンと中国革命(資料集)』からは大いに刺激を受けた。それまで、ソ連は中国と同じく、組織のランクが高く、特別な政治宣伝の任務を負っている人は、機密文書を使って文章を発表したり書籍を出版したりすることが許されたかもしれないが、普通の研究者はそれに従ってただ孫引きすることしかできなかった。それが今やソ連では、党中央の機関でもない研究所の研究者が、ソ連共産党中央委員会直轄の公文書館に入り、中国共産党の歴史に関わる文書資料を閲覧して、編集出版できるようになったのだ。しかも、ファイルや文書ごとの番号が明記されており、国内外の研究者が研究に使うことができる。この背後には政治の動きが作用していたのかもしれないが、中国では想像すべくもないことだった。なぜなら、中国では「檔案法」が公布されたとしても、外国と関わるすべての公文書には依然として制限があり、研究者が閲覧利用することは許されていなかったからだ。中央の公文書を利用することができるのは、ほとんどは「中国共産党中央委員会」の名の付いた研究機関であり、そうであったとしても、その出典を明記することはできなかったのだ。

 ソ連解体の直前、私は北京のとある国際会議で、『コミンテルンと中国革命』の編纂に携わった極東研究所のグリゴーリエフ教授に会った。細かく聞いてみたところ、機密解除の範囲や、閲覧の手続き、関連する文書の分類や検索の手段など、コミンテルンの公文書を保管するソ連共産党中央文書館の状況を丁寧に教えてくれた。彼の話によれば、ソ連における公文書の開放の状況も決して楽観できるものではないが、専門の研究機関の紹介があれば、外国の研究者にも公文書館に入って資料調査をする機会があるということだった。そのため、その資料集を「かじる」にせよ、機会があったときにモスクワに資料調査に行けるよう準備するにせよ、ともかくまずはロシア語を「かじる」ことから始めなければならなくなっていた。ただ、そのチャンスがやってくるのは、実のところあまりにも早すぎた。

 1992年の夏、私はワシントンでウィルソン・センターが開いた中米関係史のシンポジウムに招待され、そこでノルウェーのノーベル研究所の研究部主任であるオッド・アルネ・ウェスタッド(Odd Arne Westad)と知り合った。ソ連解体後のロシアにおける公文書の機密解除の進展を注視していた欧米の研究者たちの例に漏れず、彼も既にモスクワで実地調査を行い、一部の公文書館や研究機関と初歩的な協力関係を築いていた。私が1か月余り後に帰国してから間もなく、彼から手紙が届いた。グリゴーリエフ教授と相談して、私を含め3人でロシアの新しく機密解除された公文書を使い、一緒に400ページ前後のコミンテルンと中国共産党の関係についての史料集を作ることにしたのだという。これを機会に私がモスクワに出向くことを彼は望んでおり、ロシア科学アカデミー極東研究所とロシア現代史文書保存・研究センター(略称はRTsKhIDNI ルツヒドニ、ソ連共産党中央文書館の後継組織で、現・ロシア国立社会政治史文書館)の正式な招聘(しょうへい)状を手配してくれるという。

 お分かりであろうが、私はその頃、何の準備もできていなかった。第一の問題は、もちろんロシア語である。私は当時、ロシア語の辞典を引きながらようやく文章のタイトルが読めるようになったばかりで、公文書館に手助けしてくれる通訳がいないならば、資料利用申請書を書くのでさえ難しいかもしれないし、公文書を取り寄せられたとしても、中に具体的に何が書いてあり、それが役に立つかどうかをすぐに判断することはできなかった。第二の問題は、私が当時所属していた中国社会科学院の国外出張に関する融通が利かない規定であった。私はこれについてわざわざ所長に掛け合ったが、その答えは、必ず招聘側が提供した往復航空券の証明がなければならないというものだった。

 第一の問題は、まだ自分で解決できる見込みがあった。なぜならば、私の主たる任務は資料集にふさわしい公文書を探し出すことであり、目録さえ読むことができれば、それを申請書に丸写ししたらよく、その後は中に何が書いてあるか分からなくても、コピーして帰国してから翻訳すればよかったからだ。それに、極東研究所のグリゴーリエフ教授の助手であるシェビレフ準博士(ロシアにおける学位の一種で、Ph.D.に相当する)とは親しく、最初はきっと手助けしてくれるであろう。初めの1、2回でどう調べればよいか分かるはずだ。思いがけないことに、二つ目の問題も、結局、問題にはならなかった。ウェスタッドによれば、航空券や住居の問題もすべて考えてあるという。最終的に、招聘状を出すロシアの側にむしろ厄介事が多く、この時期はだめだ、こっちもだめだというように、半年余り引き延ばされた。6月2日になってようやく、極東研究所所長のミハイル・L・チタレンコ教授(Mikhail L. Titarenko)が招聘状を出してくれた。9月15日から1か月の予定で、モスクワで調査を行うというものだ。

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