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Commentary

香港を支えた馬たち
競馬と社会に思いを馳せる

銭俊華
東京大学大学院総合文化研究科博士課程
社会・文化
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競馬は香港社会とともに独自の歴史を刻んできた。写真は香港カップを制したロマンチックウォリアー(左端、2023年12月10日)。2024年6月の第74回安田記念でも優勝した(共同通信)
競馬は香港社会とともに独自の歴史を刻んできた。写真は香港カップを制したロマンチックウォリアー(左端、2023年12月10日)。2024年6月の第74回安田記念でも優勝した(共同通信)

先日、いつも通り母と電話で話していたところ、ひさしぶりに父の声を聞いた。行け!行け!競馬の観戦をしている元気そうな様子でよかった。

いつも身近な存在だった

物心ついた頃から、父はよく競馬新聞を持って、テレビやラジオの激しい滑舌の実況中継を聞きながら、期待とイライラを繰り返していた。週末になると、父はたまに私を連れて路面電車に乗り、工場地帯にある歩道橋の下でこっそり飼っている雑種犬に会いに行った。ついでに、父は工場地帯の場外券売所で馬券を買う。ある日、券売所に入れない私が犬と一緒に待っていると、犬が突然サッカーコートの方に走り出した。私はチェーンを掴(つか)もうとしたが、手を離してしまった。この辺りは犬の活動圏内なので心配はなかったが、タバコを吸ってしゃがんでいる、周りのおじさんたちにずっと見られている感じがして、気まずかった。

労働者の罵倒や汚い言葉、床に散らばった馬券や吸い殻といった思い出に加えて、私にとって競馬には良い印象もある。香港の地上波テレビ局TVBは、競馬団体である香港ジョッキークラブの協力を得て、『勇往直前』(On the Track or Off)というドラマを制作し、2001年4月から放送した。動物をテーマにしたドラマは私の好みであり、ちょうどその1年前の2000年6月4日、フェアリーキングプローンが香港を代表し、第50回安田記念(GI)サラ系4歳以上の1600mで優勝していた。初めて海外のGI競走で勝利を収めた香港馬、フェアリーキングプローンは地元のファンに愛され、競馬にまったく興味がない小学生の私でもその名前をよく知っていた。

そういえば、香港の競馬はいつも身近な存在だった。家の近くには香港ジョッキークラブが寄付した盲養護老人ホームがあった。習い事や自習室を使うためによく行っていた児童青少年センター、そして人生初めて水泳の息継ぎができたプールも香港ジョッキークラブのものだった。調べてみると、ビクトリアパーク、香港公園、九龍公園、オーシャンパーク、香港体育学院、香港演芸学院、各大学の一部の講義・研究棟、香港中文大学の病院、香港城市大学の獣医学院、香港故宮文化博物館、大館(旧中央警察署の建物群)の保存と活用、無形文化財の大坑舞火龍(ファイヤー・ドラゴン・ダンス)、長洲太平清醮(饅頭節)など、戦後から現在まで香港ジョッキークラブの寄付が香港の社会福祉や教育、文化を支えてきたことがわかった。いや、より正確に言えば、香港社会を支えてきたのは、実は馬なのではないか?

死と隣り合わせの競走馬

2023年6月4日、香港ジョッキークラブは32年ぶりに午後4時からの「夕競馬」を再開した。亜熱帯の昼間の猛暑を避けるための措置だったが、同年7月にはレース中に2頭の馬が急性心不全で倒れて死亡し、1頭が脚を折って安楽死させられた(『香港動物報』2024年1月15日)。同報の創刊者・梁美宝の調査によれば、2011年から2021にかけて、香港のレースに出走した馬のうち、少なくとも89頭が斃死(へいし)した。そのほとんどがレース中や日々の運動中に脚を骨折し、殺処分させられたりした馬で、中には急性心不全を起こしたり、原因不明の急死を遂げた馬もいた(『明報』2021年12月17日)。

また、2022年には計549頭の馬が引退したが、香港ジョッキークラブはこれらの馬たちのその後について公表していなかった(『香港動物報』2024年1月15日)。香港ジョッキークラブの公式サイトによれば、1964年以来、同クラブが「リスタート・引退競走馬プログラム」(RESTART Retired Racehorse Programme)を行い、引退馬を新界の双魚河に位置する傘下の馬術学校に送り、「休養の家」を提供してきたという。2018年には広東省広州市で、東京ドーム32個分の広さを持つ香港ジョッキークラブ従化競馬場が開設された(中国大陸ではまだ競馬が開放されていないため、この競馬場はトレーニングセンターとしての機能しかない)。その2年後、同競馬場の引退馬センターが双魚河馬術学校の再調教センターと協力し、馬の再調教に取り組むことになった。しかし、従化側の最大収容頭数は60頭であり、双魚河は80頭だ。毎年の引退馬が400から500頭程度とされていることから見ても、この収容能力では半数だけでもすぐに一杯になると考えられる。

同クラブもまた、2025年シーズン以降、馬主が引退馬を海外に送り出す場合、従来の輸送費支援金の上限10万香港ドル(約200万円)に加え、5万香港ドル(約100万円)を支給すると発表した(『明報』2024年4月12日)。しかし、馬の養老費用は高額だ。2025年シーズンから同クラブに所属する競走馬は月3万香港ドル(約60万円)かかる(同上)。引退後は調教料や運動料が不要かもしれないが、厩舎(きゅうしゃ)の預託料、飼料代、装蹄(そうてい)、医療などの費用が必要だ。本来の半額になるとしても、高額な費用がかかることに変わりはない。法的措置や経済的誘因がなければ、賞金を狙い自馬の優勝を誇りたい馬主が、使えなくなった馬に資金を費やすだろうか?

もし馬主が自分で引退馬の行き先を決めない場合、香港ジョッキークラブに委託ができる。「競走馬の引退」(Racehorse Retirement)という申込書には、「香港ジョッキークラブの判断に委ね馬の処分を決定する」というオプションがある。その下には「当クラブは、当クラブが認めた香港/中国本土/海外の乗馬団体に馬を送る/寄贈することができる。当クラブにより馬が馬術の用途や輸出に適さないと判断された場合、その馬を安楽死させることができる」と太字で付記されている。同クラブが関連情報を公開しない限り、馬の行く末について確定的なことは言えない。例えばフェアリーキングプローンのように、安楽死を免れて引退し、地元の馬術学校で暮らし、さらにニュージーランドで余生を過ごせた競走馬がたくさんいるなら、そのデータを公開し、馬の余生を心配している人々に安心感を与え、引退馬保護活動を推進する世界の模範になってほしい。

2023年、日本の農林水産省畜産局競馬監督課がまとめた資料によると、中央競馬と地方競馬の競走馬の登録抹消頭数は計11,024頭だった。そのうち、斃死(へいし)した馬は1,060頭で全体の10%を占めている。再登録(中央競馬から地方競馬へ、またはその逆)が3,961頭(36%)、乗用馬への転用が3,257頭(24%)、繁殖用が1,281頭(12%)、研究用が15頭(0.1%)、その他が1,450頭(13%)となっている。見たところ、登録抹消された馬は多様な行き先があり、特に乗馬クラブや大学馬術部などの乗馬施設が重要な受け皿として機能しているようだ。しかし、日本馬事協会が公開した資料によれば、1994年から2014年にかけて日本の乗馬施設で供用されている乗用馬の数が約10,000頭から15,000頭に増加している。その一方で、乗馬人口が急速に増加していないことを考えると、仮に毎年約2,000頭の競走馬が乗用馬として移転されるとしたら、相当数の乗用馬を乗馬施設から追い出さなければならない状況だろう。養老牧場が少ないため、天寿を全うできずに殺処分される馬の数は依然として多いと考えられる。

日本とは異なり、香港には生産牧場がないので、境内で繁殖への転用は行われていない。香港ジョッキークラブの下には屯門、薄扶林、鯉魚門、双魚河に位置する馬術学校があり、民間の乗馬クラブもいくつか存在するが、日本の全国に点在する乗馬クラブや大学の馬術部とは比較にならない。そのため、競走馬から乗用馬への再調教の機会も非常に限られている。

私はこれまで自分の手を汚さずに工業的畜産に頼るばかりで、家畜や家禽(かきん)を過剰に消費し、動物実験を経て開発された薬品やワクチンを使ってきた。急に道徳的な高みに立って動物の福祉を論じるのはおかしいが、前述したように香港ジョッキークラブの寄付により設立された多くの社会・文化・教育の施設から見ると、香港社会は馬によって成り立っていると言っても過言ではないだろう。さらに、競走馬は単なる金のなる動物ではなく、騎手の命や調教師のキャリア、そして馬主の栄光がかかっている。このように、馬は人間との信頼関係が深い。人間性を重んじる現代社会で、その信頼関係を簡単に裏切ることはもはや許されないはずだ。

香港社会とともに歩んできた

競馬は香港社会とともに独自の歴史を歩んできた。19世紀にはイギリス人の趣味であり、一部の住民の休日の見世物だった。20世紀前半に入ると、クラブのメンバーシップが徐々に華人エリートにも開放されるようになり、特に戦後には多くの一般住民の娯楽となっていった。1846年に設立されたハッピーバレー競馬場の他に、ニュータウン開発計画に伴い、1978年に沙田競馬場も開設された。地域の住民に就業機会を提供し、1980年代以後の沙田区というニュータウンの発展と成功も象徴する場所だった。

イギリス時代には、総督カップや軍隊に由来する「センチュリオン」(百人隊長)や「グルカ」(戦後香港にはネパールの山岳民族出身者からなるグルカ部隊が駐留していた)と名付けられた特別レースがあった。1997年の香港返還後も、現在に至るまでクイーンエリザベス2世カップという重賞レースが毎年開催されている。香港競馬はイギリスの伝統を受け継ぎながら、地元出身の華人騎手や調教師が育ち、外国産の香港馬とともに海外のGI競走で活躍している。先進国並みの水準に到達した香港競馬は、近年では中国馬術協会と協力し、「国家の競馬と馬産業の発展を促進しよう」という方針を打ち出している(賽馬新聞、2023年5月5日)。また2018年には、すでに述べた広東省広州市の香港ジョッキークラブ従化競馬場が開設された。この競馬場は現在、トレーニングセンターとしての機能しかないが 、将来的には中国大陸における競馬事業の拠点となる潜在力もある。以上の香港競馬の発展を見ると、まるで香港の縮図や宿命にも思えてくる。偶然にも、隣のマカオ特別行政区にあるマカオジョッキークラブは経営難に陥り、今年の4月1日に政府との競馬運営権契約を解除された。1980年代から本格化したマカオ競馬の幕は閉じた。香港ジョッキークラブは、将来開放される可能性がある競馬事業を牽引する、中国で唯一の老舗企業となっている。

中国大陸を視野に入れるなら、さらには人間中心主義から一歩引いて考えるなら、馬にとっては香港競馬の将来はどうでもよいことなのかもしれない。馬たちは殺処分されるよりもむしろ、馬主が支払った購入費や競馬団体の収益から養老年金を受け取り、中国大陸の広々とした土地の一角で、余生を過ごすことを望んでいるだろう。

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