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Commentary

魯迅研究の隆盛は何を意味しているのか
その深いポテンシャルを考える

鈴木将久
東京大学大学院人文社会系研究科教授
社会・文化
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魯迅は時代によって多様な読み方がされてきた。写真は天津市の内山書店に設けられた、魯迅の書籍や書簡などが閲覧できるスペース。2023年1月23日(共同通信社)
魯迅は時代によって多様な読み方がされてきた。写真は天津市の内山書店に設けられた、魯迅の書籍や書簡などが閲覧できるスペース。2023年1月23日(共同通信社)

実は魯迅を研究するとき雑文を避けて通れないのは、それが魯迅の全体像に関わっているからである。魯迅が生前にまとめた作品集を見てみると、いわゆる文学作品と呼べる作品集が5冊であるのに対して、雑文集が合計16冊ある。雑文の方が数量的には多いことが分かる。つまり雑文への注目は、魯迅が書いた文章を全体としてとらえようという研究姿勢を示している。魯迅が文学者として虚構作品に力を注ぎ、その合間に雑文を書いたと考えるのではなく、魯迅にとって虚構作品と同等の、ひょっとしたら虚構作品以上に重要なものとして雑文があったと考えることである。こうした姿勢は、魯迅にとって「文学」とは何かについての問い直しに向かうことになる。小説や詩のような典型的な虚構作品のみならず、一見時事的な評論に見える雑文も、魯迅にとっては文学の一環だったのではないかと考えられるようになった。文学とは何かを再検討し、文学の意味を拡大して、その有効性の範囲を根底的に問い直す思考が生み出されてきた。

注目すべきなのは、魯迅の文学観念を広い視野から問い直すとき、世界の文学現象との同時性が念頭におかれることである。これまで魯迅は中国特有の文学者として位置づけられる傾向にあったが、近年では世界文学の一員として読まれている。それはもちろん、世界の偉大な文学の下部にある一部分という意味ではない。むしろ世界中の文学者が20世紀になってさまざまな形で直面した危機に対して、西洋を含む文学者たちと同時に、別の形で模索をした文学者としてとらえるという意味である。かくして魯迅の文学を考えることは、20世紀の世界の文学を考えることと同等になった。

新しい思想の胎動も?

以上のような魯迅を契機とした文学自体への問い直しが、現在の中国でなされている。現在の中国の知的な営みを考えるとき、魯迅がキーワードになっていることを見逃してはならないだろう。現在の中国が昏迷(こんめい)の中にあることは言うまでもない。中国の危機には、いうまでもなく中国特有の事情が大きく存在しているが、アフターコロナの時代における世界的な危機とも深く結びついている。あるいは世界的な危機を戯画(ぎが)的なまでに拡大している側面があると言えるかもしれない。そのような、今までの認識が根底から揺るがされるような、しかも中国国内の危機と世界的な危機が分かちがたく結びついている困難な時代において、魯迅の雑文が注目されたのは、決して偶然ではないと思われる。ここからはたして新しい思想が生み出されるのか、それはまだ分からない。萌芽(ほうが)だけで終わる可能性も否定できない。とはいえ、魯迅文学の持つ深いポテンシャルを考えるならば、私たちは魯迅研究に新しい思想の胎動を期待しても良いのではないだろうか。

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