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Commentary

中国中央公文書館、その謎めく内部を探訪する
中国共産党史研究者による回想録

楊奎松
北京大学教授(定年退職)、華東師範大学「紫江学者」
社会・文化
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2011年5月、北京の中央檔案館で、中国の歴史的重要資料について記者団に説明する館員。その内部は、いまだに秘密に包まれている(写真:共同通信社)
2011年5月、北京の中央檔案館で、中国の歴史的重要資料について記者団に説明する館員。その内部は、いまだに秘密に包まれている(写真:共同通信社)

編者解題:
「檔案(とうあん)」とは、通常、歴史を記録するための証拠とする価値があり、永久または長期にわたって保存する必要がある様々な文献資料のことを指す。日本の国立公文書館のように、世界の大半の国には、この目的のために作られた国単位または省庁単位の公文書館がある。中国では、下は(日本の「郡」の規模に相当する)県から、それより大きい市、そして省、さらに中央に至るまで、専門的に檔案を保管するための檔案館(とうあんかん)が各レベルにある。他の多くの国における公文書館の主要な業務は、法に則って時期が来たら機密解除を行い、公文書の閲覧や利用を必要とする人に対してサービスを提供することにある。しかし、中国はこれと異なり、明清時代の檔案を保管する第一歴史檔案館を除くそれ以外の党や政府の各レベルの檔案館は、長らくの間「党と国家の機密を守る」ことを目的としてきた。改革開放が始まり、とりわけ1987年9月に「中華人民共和国檔案法(とうあんほう)」公布される前後になってからようやく、状況が少し変わるようになった。このエッセイは、中国共産党史の研究者である楊奎松氏が、檔案法の起草の議論が行われていた頃に中国共産党の中央檔案館に行って資料調査を行なった経験を書き記したものである。1977年・78年入学の中国人民大学の同窓会文集に20年前に掲載されたもので、少数の人にしか読まれてこなかった。今回、楊奎松氏の同意を得て、多少の修正を加えてもらった上で、日本語に訳す。日本の読者は、これを読むことで、中国において檔案の機密解除にいかなる困難があり、どのような曲折を辿(たど)ったのかということがわかるだろう。

絶好のタイミング

中央檔案館は、北京市海淀区温泉鎮白家瞳の山に囲まれた場所にある(1993年以降は国家檔案局(こっかとうあんきょく)と合併)。中央檔案館自らの紹介によれば、収蔵する公文書は、中国共産党の創立から1990年までの125万巻、数億ページに上っており、書架の長さは1.3万メートルに及ぶという。国家檔案局と合併して以降加わった、国務院の下部にある部や委員会などの政府機関の公文書も含めるならば、その量と質はため息をつくばかりのものだ。しかし、改革開放以前、中央檔案館の基本的な任務は公文書を収集・管理することと、そして党中央の指示に従って業務を遂行することのみであった。それ以外の人は、中国共産党史を専門とする学者でさえ、中央檔案館で公文書を閲覧することはできなかった。

しかし私は、1984年に中央檔案館に入って資料調査を行うことができた。この機会は、思いがけずやってきたものだ。第一に、卒業してから党中央党校の『党史研究』編集部に配属されたためである。幸運にも中央党校は組織としてのランクがとても高かった。第二に、ちょうど党中央も党の歴史文献をすべて秘密であるとみなすそれまでのやり方を変えようとしており、各国の慣例を参照しつつ「檔案法」を制定すると決めていたことによる。

私が中国人民大学の卒業論文で研究したのは、中国共産党の抗日民族統一戦線政策の形成とコミンテルンの関係についてであった。当時はこの分野での研究はあまりなく、とりわけ資料的条件には限界があった。イギリスや日本、ロシア、台湾や香港の関連する資料の情報を何とかして探し出すことを除けば、国内において価値のある古い資料を探し出せる場所は、私が通っていた人民大学のみであった。共産党の中央党校で働くようになってから、条件はだいぶ良くなったが、私の研究したい中国共産党とコミンテルンの関係についての資料を探すのは、やはり困難であった。

1980年代初頭から、既に一部の党史学者は中央檔案館で資料調査を行うようになっていた。ただ、彼らが行くことができたのは、いずれも中央の関連部門から委託されたプロジェクトに参加していたり、中央指導者の回顧録や伝記の編纂(へんさん)チームに出向していたりしたからだ。いずれも党中央弁公庁の許可を得た集団的なプロジェクトであった。少なくとも私が中央党校で働いていた時期に、個人が申請して資料調査することができたという事例は、聞いたことがなかった。

1983年、私の卒業論文の指導教員である楊雲若(よううんじゃく)教授が、『コミンテルンと中国革命』という本を共著で出すことに誘ってくださった(1988年出版)。1935年の抗日民族統一戦線政策の形成から1943年のコミンテルンの解散に至るまでの下巻を私が担当することになった。中央檔案館で資料調査をしたいと思うようになったのは、このためである。

その頃、個人で資料調査を行うのが難しかったのは、主に審査の手続きに制約があったためだ。人民大学の党史学部の教員を例にとるならば、その多くは中国共産党史を研究しており、資料調査を求めるだけの理由が十分にある。しかし、規定によれば、中央檔案館で資料調査を行う人は誰であれ、必ずその職場の党委員会の許可を得て、紹介状を取得して、さらに上層部に報告していかなければならない。例えば、人民大学の教員は、まず学部の党総支部に報告して、そこで同意を得てから大学の党委員会へ、それからさらに教育部の党委員会へ、そして党中央弁公庁へと報告していき、弁公庁が同意したら中央檔案局(ちゅうおうとうあんきょく)に命令を出し、さらに檔案局が中央檔案館に対応を命じる。言うまでもなく、教員個人が自分の研究のために調査しようとしても、通常であれば党総支部でさえ通るとは限らないし、ましてやこれほどの関門を通らなければならないのだ。

私が当時、申請を出すことにしたのは、党校の責任者の許可さえ得られれば、党校の教員は中央檔案館に直接行って調査をすることができ、党中央弁公庁や檔案局に伺いを立てて許可を得る必要がないということを知ったからだった。このことがわかってからすぐ、私が編集者として働いていた中央党校の『党史研究』編集部の責任者であった何明(かめい)教授に、檔案館で調査してみたいと伝えたところ、彼は報告を書いて試してみたらいいとあっさり言ってくれた。そこで私は、党校の校長に申請報告書を提出した。理由としたのは、抗日民族統一戦線の形成の問題に関する研究が勃興しつつあり、それに関する原稿は『党史研究』の編集部に多くあるが、資料調査をして関連する状況について理解して検証することが必要だというものだった。

当時の中央党校の校長は胡耀邦(こようほう)で、党校の雰囲気はわりと開放的だった。私が報告を出してから数日と経たずに、責任者である副校長が「同意」の指示を出してくれた。私はそれから学校の党委員会の事務所に行って紹介状を受け取り、こうして中央檔案館の門をくぐる「通行証」を順調に手に入れることができた。

1年間の努力が無駄に

1984年のうららかな春の一日、中央檔案館に行ったことのある先生に教えてもらった通り、私は中央党校の裏口から路線バスに乗り、(北京市街と密雲ダムを結ぶ)京密導水路に沿ってひたすら北へと向かった。あちこちを回りながら1時間かけ、ようやく中央檔案館にたどり着く。見張りに立つ衛兵の許可を得て敷地に入り、事務所で中央党校の紹介状を受付に渡した。向こうは紹介状をじろじろと見てから、中にいた少し年配の幹部を呼び出し、小声で相談を始めた。それからようやく、その年配の人が私にこう尋ねた。「君は具体的に、どんな資料を探しているんだ?」

私は檔案館に来るより前に、既に2,3人の先生から、資料調査にあたって突き当たるであろう問題について聞いていた。彼らによれば、中央檔案館が利用者に閲覧可能な資料目録を提供することはないので、必ずこちらから具体的に調べたい文書の正確な名称と日付を提出しなければならないとのことだった。もしも提出した目録が具体的ではなったり、少しでも不正確だったりすると、そのファイルは存在しないと言われてしまうかもしれない。そのため、私は比較的正確な資料目録をあらかじめ用意していたが、その項目は10件にも満たないほどで、探りを入れるようなものであった。

目録を提出すると、受付の若者は通路の向かい側にある大部屋に私を連れて行ってくれた。当時、監視カメラはなかったが、閲覧室の入り口近くに職員の座る席が一つあり、その職員の任務は調査の様子を監視することであった。ただ、私の請求した公文書が届けられたときには、既に昼食の時間になっていた。一斉に昼休みの時間となるので、私は公文書に触れることもないまま、閲覧室を出るように言われてしまった。幸いにも中央檔案館は外から来た人も区別なく扱ってくれて、館内にある集団食堂で食事をとることができたし、食後は共同休憩室で休むことができた。しかも、休憩室には私1人しかいなかったので、昼休みは2時間以上にわたって続いたが、難なくやり過ごすことができた。

公文書の調査がいかに難しいかはよくわかっており、始めてすぐに収穫があるだろうとはもともと思っていなかった。それに、文書名と日付を正確に提出するためには、自分がよくわかっている資料であったり、さらには周辺的であったりする資料から見ていかなければならなかった。そのため、最初の2、3回の調査では、既に公開されているが、文言の調整や削除があるかもしれない文書だけを見た。これにより、文書名や日付が間違っているという理由で閲覧が拒否される事態を避けることができる。

私のやり方は、細く長く続けていくというものだった。私は編集作業も行う必要があったので、毎週檔案館に行くことができる時間は実はとても少なかった。1週間で多くて2日を割けるぐらいで、ときには1、2週間全く行く時間がないということもあった。それでも、半日でも時間があれば、バスや自転車に乗り、時間と労力をかけて、顔を出しに行った。このようなやり方には二つのメリットがある。第一には、行かない時間が長くなると、紹介状が再び必要になってしまうかもしれないが、それを避けることができる。そして第二に、職員たちに私の存在に慣れてもらうことができる。

こうして半年間やっているうちに、檔案館の若者たちと仲良くなっていった。彼らにも業績評価の圧力があり、私が『党史研究』の編集部にいると知っていたので、テーマ選びや論文の書き方への助言を私に期待していた。確かにこの方面では、私も多少のアドバイスをすることができた。

中央檔案館に保存されている文書の中には、職位の高い人しか閲覧できないものもあるが、通常の政策や業務についての文献資料は比較的開放されていた。カギとなるのは、正確な文献目録を提出できるかどうか、そして出納担当者が頑張って探そうとしてくれるかどうかである。檔案館の若者と知り合いになってからは、公文書を探すためのコツを少しずつつかむことができただけではなく、タイトルが完全には一致しない文献資料も探してもらえるよう職員を説得できるようになった。このようにして、探し出せる資料の範囲は格段に広がっていった。

しかし、中央檔案館で資料を見ることができたからと言って、必ず書き写した資料を持ち出せるというわけではない。資料調査の準備をしていたとき、このような助言をくれた先生がいた。カードを何枚か用意しておいて、もしも重要な資料を見つけたら、要点をそのカードにこっそりと写しておくのがいいというのだ。なぜならば、檔案館は閲覧者が書き写した資料をすべて一字一句審査して、「問題がある」とみなされた部分については、筆で濃く墨塗りにされてしまうという経験があったからだ。塗りつぶされた字句は、強い光に当てたとしても読み取ることができず、無駄骨になってしまうという。

私は中央檔案館に来てから、ずっと「秘密」と表記されたノートを使い、檔案館から提供された鉛筆で書き写していた。写し終わったら、監視員が見ている前で、指定された場所に置いた。だから、一度も持って帰ったことはなかったし、こっそりとカードに要点を書きとるということをする勇気もなかった。このようにして途切れ途切れながら1年以上かけて写し取り、1985年になりその問題の調査を終えなければならなくなってからようやく、ノートを持ち出すため、写し取ったものの審査をお願いした。果たして、結果は驚くべきものだった。ノートを開いてみると、大部分の内容は筆で塗りつぶされていて、残されたものはほんの少ししかなかったのだ。

その日、檔案館の建物から出たとき、ちょうど私のノートの審査を担当した某処長に会ったのだが、彼を捕まえて問い詰めてやりたいという衝動にかられたことをよく覚えている。

妬みと嫉み?

私は決して怒りっぽい人間ではないが、そのときばかり衝動的になりかけたのは、その某処長が私の1年間余りの努力の結晶を消し去ってしまったから、というわけではない。これが彼の仕事であると私もわかっていた。私が彼を問い詰めたくなったのは、それまでにあった一連の出来事により、彼のやり方が実に腹立たしいと感じていたからだった。

某処長は白髪頭のベテランで、年齢的に次の昇進の芽はないようだったが、政治的警戒心は依然としてとても高かった。彼と初めて会ったのは、私が二回目の資料調査に来たときで、当時私が閲覧室で公文書の書き写しに没頭していたところ、なぜだか知らないが、彼がわざわざやってきたようだった。私は彼が入ってきたことに気付かなかったが、彼はいつの間にかひっそりと私の背後に立ち、公文書を書き写すのを眺めていた。頭の後ろに気配を感じ取り、振り返るとようやく、彼は何事もなかったかのように机の前に来て、表情を崩すことなくこう尋ねた。「そんな公文書を見て何の意味があるんだ?」「なぜ中央檔案館に資料調査に来た?」というように。彼が言いたいのは、私の知りたい問題は中央の決議や党史の教材に既にはっきりと書いてあるのだから、私のような若造が来て自分で研究する必要があるのかということだ。これは私が所属していた部門の老主任が言ったことと似ている。「君が賢いからと言って、党中央、毛主席より賢いっていうのかね?」それからさらに、彼は一通り話し続けた。中央の公文書がいかに重要であるかということ、党と国家の機密に関わっており、公文書を自由に書き写すことはできないこと、檔案館による審査を受ける必要があり、書き写したからと言って持ち出すことはできないこと、云々。

後から知ったことだが、改革開放後に中央檔案館が個人による資料調査の申請を許可するようになって以降、私は調査に来た最もキャリアが短く若い学者であった。私は中央や地方の党組織から委任された執筆チームの一員として調査に来たのではなく、中央党校の責任者の許可を得たとはいえ個人の身分で来た若い編集者に過ぎないため、特に目立ってしまった。それまでの仕事の習慣や政治的警戒心ゆえに、その老同志がそこまで敏感になっていたというのも無理はない。実のところ、こうしたことはもともと覚悟していたし、たいしたことだとは思っていなかった。

その後はなかなか思い通りにはいかなくなった。私が資料調査を始めてから1年ほど経ったある日、仲良くなっていた檔案館のある若者が突然やって来て、小声で私に某処長と何かあったのかと聞いてきた。その理由は、彼が午後の勤務時間に手荷物預かり所を通りかかったところ、ちょうど私が預けた荷物を某処長が物色しているのを見かけたからだった。こうしたことはそれまでに見たことがなかったため、とても意外に思い、私が某処長の機嫌を損ねたか、あるいは某処長にルール違反が見つかったのではないかと疑ったのだった。

それを聞いて私は、なんとも言えない気持ちになった。かばんを含め、荷物はすべて施錠しておいており、その鍵は自分で持っている。某処長は受付にあった予備の鍵を使って、私の荷物が入った棚を見つけ出し、公文書を見ている間にこっそりと開けて検査をしていたに違いない。幸いなことに、私はこっそりと書き写して持ち出すようなことはしていなかったので、心配することはなかった。わざわざ教えてくれた親切な彼に、「大丈夫だ、そうさせておけばいいよ。価値のあるようなものは何も持っていないから」と苦笑しながら言うしかなかった。

このことがあってから数日後、某処長が急に閲覧室にやって来て、私を廊下に呼び出し、出国の予定があるのかと厳しく聞いてきた。そう聞かれて、私はただ呆然(ぼうぜん)としていた。何のことだかわからないという様子の私を見て、まるで現行犯を捕まえたかのような硬い表情で、さらに厳しく聞いてきた。「お前はカナダで会議に出るのだろう?なぜそれを教えなかった?」そこでようやく、確かにカナダの謝培智(しゃばいち)教授から、北米歴史学会の年次総会への招待状をもらっていたことを思い出した。しかし、それは1、2か月も前のことで、私はその会議に参加するつもりはなかった。私は彼に、その情報は不正確で、会議に参加するつもりはないと言った。だが、彼は全く聞き入れず、資料調査を続けることはできないと繰り返し伝えてきた。私が出国するならば、機密漏洩(ろうえい)の可能性があるからだという。どう説明しても、聞こうとしなかった。そして、まさにこのことが原因で、資料調査をやめなければならなくなっただけではなく、書き写したものを審査する際に手ひどくやられたのであった。公開されていない資料はほとんどすべて黒塗りにされ、既に基本的に公開されている資料がわずかに残されただけであった。

真相は別に

後になってわかったことがある。私の中央檔案館での資料調査に最も「妬みと嫉み」を抱いていたのは、実は某処長ではなく、中央党校の私と同じ研究室にいたある老教授であったのだ。檔案館の受付の若者によれば、その老教授は某処長に対して、私に公文書を見せてはならない、そのような先例を作ってはならないと前々から吹き込んでいた。その理由は、中央檔案館に来て公文書を見る人は、党の各級の部門で厳格な審査を受け、さらに上級部門が委託したプロジェクトに参加しており、長期にわたって素性を確かめられた人でなければならないというものだ。私は働き始めたばかりで、何もわかっておらず、国や党のプロジェクトに参加しているわけでもない。そんな若者が、個人の資格で個人の研究のために中央檔案館での資料調査を行うなど、許されるものだろうか?!

私の資料調査をやめさせたのも、その老教授であった。彼が某処長と檔案館の上層部に対して、私が出国して会議に参加するつもりで、中央檔案館に資料調査をしに来たのもおそらく出国の際に利用するためなのだと告げていたのだ。つまるところ、某処長がこっそりと私の手荷物を物色していたのも、資料調査を阻止したのも、書き写したものをほぼすべて消し去ったのも、背後で操っていたのはすべて私と同じ職場のその老教授だったということだ。

抜き書き以上の収穫

「檔案法」が起草・制定された1980年代の数年間は、公文書を開放するというのが党中央の指導者の共通認識となっていた。党中央の公文書開放を進める直接の担当者であったのは、党史指導チームの責任者の胡喬木(こきょうぼく)だ。彼の指導と後押しがあったために、檔案館の某処長であれ、党史研究室の老教授であれ、私が再び檔案館で資料調査を行うのを阻止することはできなかった。半年ほど経ってから、私はまた報告を書き、紹介状を手に入れ、檔案館に調査をしに行った。その頃は、カナダの会議もとっくに終わっていたので、紹介状を拒否して私に資料調査をさせないだけの理由は、檔案館にもなかった。こうして、私はまたもや中央檔案館で1年余りかけて公文書を見ることになった。

1985年から1986年にかけて、すなわち「檔案法」の草案へのパブリックコメントが募られ、概ね形が出来上がっていた頃、中央檔案館においても対外開放を準備する重要な兆しが現れたことを覚えている。当時、中央檔案館は、手間暇をかけて公文書の電子化作業を始めていた。とりわけ、開放してから大勢やってくるであろう調査者が使えるように、1949年以前の公文書の目録編纂に着手していた。受付ホールに抗戦(日中戦争)終了までの閲覧可能な公文書の目録簿が置かれているのを、私はこの目で見た。公文書の開放という当時の大きな流れの中で、中央檔案館もそれまでの過度に硬直的なやり方を変えざるを得ず、開放に向かって歩み始めていたことを示すものだった。

しかし、それまでの教訓から、私も今度は賢くなっていた。ひたすら資料を取り寄せて読むことに注力して、抜き書きすることにはほとんど時間を使わなかった。そうすることで、その頃まだ開放されていなかった公文書を大量に読み、私が関心を持つ様々な事件やそれが起きた原因、その経緯について理解することができた。毎日帰ってから、記憶を頼りに資料の年代を整理して、国内外の研究成果や他の史料とも対照させつつ、次はどの公文書を読もうかと計画していった。これにより、持ち出すことができないとわかっている大変な書き写しに、時間を浪費せずに済むようになる。

残念ながら、当時の歴史的な過程をもってしても、中央檔案館における公文書の開放が実際に前に進むことはなかった。1987年9月、「中華人民共和国檔案法」が正式に公布されたが、まさにこの年に、中央檔案館の公文書が開放されたときのために準備されていた閲覧者向けの目録簿が、受付ホールから撤去されてしまったのだ。私もまた、この年に中央党校から離れ、大学で教えることになったので、公文書を調査し続ける資格を失ってしまった。中央檔案館におけるこの逆行した動きは、どうやら単に予期せぬ個別の出来事で、管理の手順がまだ整っていなかったり、業務がうまく進められなかったりしたことによるものらしかった。しかし、公文書の保管業務を行う人が、機密保持に慣れきっているために、公文書の開放が現実に危害をもたらすのではないかと心配する心理的な影響が大きく、結果としてこのようなことになってしまったのだとしても、不思議ではない。

その結果、「檔案法」の公布に伴い、中国大陸の地方檔案館における公文書の開放が間もなく始まり、30年にわたる機密解除に徐々に着手するようになったのに対して、中央檔案館における機密解除ははっきりと遅れをとってしまうことになった。

比護遥(日本学術振興会特別研究員PD)訳

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