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Commentary

中国中央公文書館、その謎めく内部を探訪する
中国共産党史研究者による回想録

楊奎松
北京大学教授(定年退職)、華東師範大学「紫江学者」
社会・文化
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2011年5月、北京の中央檔案館で、中国の歴史的重要資料について記者団に説明する館員。その内部は、いまだに秘密に包まれている(写真:共同通信社)
2011年5月、北京の中央檔案館で、中国の歴史的重要資料について記者団に説明する館員。その内部は、いまだに秘密に包まれている(写真:共同通信社)

真相は別に

 後になってわかったことがある。私の中央檔案館での資料調査に最も「妬みと嫉み」を抱いていたのは、実は某処長ではなく、中央党校の私と同じ研究室にいたある老教授であったのだ。檔案館の受付の若者によれば、その老教授は某処長に対して、私に公文書を見せてはならない、そのような先例を作ってはならないと前々から吹き込んでいた。その理由は、中央檔案館に来て公文書を見る人は、党の各級の部門で厳格な審査を受け、さらに上級部門が委託したプロジェクトに参加しており、長期にわたって素性を確かめられた人でなければならないというものだ。私は働き始めたばかりで、何もわかっておらず、国や党のプロジェクトに参加しているわけでもない。そんな若者が、個人の資格で個人の研究のために中央檔案館での資料調査を行うなど、許されるものだろうか?!

 私の資料調査をやめさせたのも、その老教授であった。彼が某処長と檔案館の上層部に対して、私が出国して会議に参加するつもりで、中央檔案館に資料調査をしに来たのもおそらく出国の際に利用するためなのだと告げていたのだ。つまるところ、某処長がこっそりと私の手荷物を物色していたのも、資料調査を阻止したのも、書き写したものをほぼすべて消し去ったのも、背後で操っていたのはすべて私と同じ職場のその老教授だったということだ。

抜き書き以上の収穫

 「檔案法」が起草・制定された1980年代の数年間は、公文書を開放するというのが党中央の指導者の共通認識となっていた。党中央の公文書開放を進める直接の担当者であったのは、党史指導チームの責任者の胡喬木(こきょうぼく)だ。彼の指導と後押しがあったために、檔案館の某処長であれ、党史研究室の老教授であれ、私が再び檔案館で資料調査を行うのを阻止することはできなかった。半年ほど経ってから、私はまた報告を書き、紹介状を手に入れ、檔案館に調査をしに行った。その頃は、カナダの会議もとっくに終わっていたので、紹介状を拒否して私に資料調査をさせないだけの理由は、檔案館にもなかった。こうして、私はまたもや中央檔案館で1年余りかけて公文書を見ることになった。

 1985年から1986年にかけて、すなわち「檔案法」の草案へのパブリックコメントが募られ、概ね形が出来上がっていた頃、中央檔案館においても対外開放を準備する重要な兆しが現れたことを覚えている。当時、中央檔案館は、手間暇をかけて公文書の電子化作業を始めていた。とりわけ、開放してから大勢やってくるであろう調査者が使えるように、1949年以前の公文書の目録編纂に着手していた。受付ホールに抗戦(日中戦争)終了までの閲覧可能な公文書の目録簿が置かれているのを、私はこの目で見た。公文書の開放という当時の大きな流れの中で、中央檔案館もそれまでの過度に硬直的なやり方を変えざるを得ず、開放に向かって歩み始めていたことを示すものだった。

 しかし、それまでの教訓から、私も今度は賢くなっていた。ひたすら資料を取り寄せて読むことに注力して、抜き書きすることにはほとんど時間を使わなかった。そうすることで、その頃まだ開放されていなかった公文書を大量に読み、私が関心を持つ様々な事件やそれが起きた原因、その経緯について理解することができた。毎日帰ってから、記憶を頼りに資料の年代を整理して、国内外の研究成果や他の史料とも対照させつつ、次はどの公文書を読もうかと計画していった。これにより、持ち出すことができないとわかっている大変な書き写しに、時間を浪費せずに済むようになる。

 残念ながら、当時の歴史的な過程をもってしても、中央檔案館における公文書の開放が実際に前に進むことはなかった。1987年9月、「中華人民共和国檔案法」が正式に公布されたが、まさにこの年に、中央檔案館の公文書が開放されたときのために準備されていた閲覧者向けの目録簿が、受付ホールから撤去されてしまったのだ。私もまた、この年に中央党校から離れ、大学で教えることになったので、公文書を調査し続ける資格を失ってしまった。中央檔案館におけるこの逆行した動きは、どうやら単に予期せぬ個別の出来事で、管理の手順がまだ整っていなかったり、業務がうまく進められなかったりしたことによるものらしかった。しかし、公文書の保管業務を行う人が、機密保持に慣れきっているために、公文書の開放が現実に危害をもたらすのではないかと心配する心理的な影響が大きく、結果としてこのようなことになってしまったのだとしても、不思議ではない。

 その結果、「檔案法」の公布に伴い、中国大陸の地方檔案館における公文書の開放が間もなく始まり、30年にわたる機密解除に徐々に着手するようになったのに対して、中央檔案館における機密解除ははっきりと遅れをとってしまうことになった。

 比護遥(日本学術振興会特別研究員PD)訳

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