Commentary
中国中央公文書館、その謎めく内部を探訪する
中国共産党史研究者による回想録
1年間の努力が無駄に
1984年のうららかな春の一日、中央檔案館に行ったことのある先生に教えてもらった通り、私は中央党校の裏口から路線バスに乗り、(北京市街と密雲ダムを結ぶ)京密導水路に沿ってひたすら北へと向かった。あちこちを回りながら1時間かけ、ようやく中央檔案館にたどり着く。見張りに立つ衛兵の許可を得て敷地に入り、事務所で中央党校の紹介状を受付に渡した。向こうは紹介状をじろじろと見てから、中にいた少し年配の幹部を呼び出し、小声で相談を始めた。それからようやく、その年配の人が私にこう尋ねた。「君は具体的に、どんな資料を探しているんだ?」
私は檔案館に来るより前に、既に2,3人の先生から、資料調査にあたって突き当たるであろう問題について聞いていた。彼らによれば、中央檔案館が利用者に閲覧可能な資料目録を提供することはないので、必ずこちらから具体的に調べたい文書の正確な名称と日付を提出しなければならないとのことだった。もしも提出した目録が具体的ではなったり、少しでも不正確だったりすると、そのファイルは存在しないと言われてしまうかもしれない。そのため、私は比較的正確な資料目録をあらかじめ用意していたが、その項目は10件にも満たないほどで、探りを入れるようなものであった。
目録を提出すると、受付の若者は通路の向かい側にある大部屋に私を連れて行ってくれた。当時、監視カメラはなかったが、閲覧室の入り口近くに職員の座る席が一つあり、その職員の任務は調査の様子を監視することであった。ただ、私の請求した公文書が届けられたときには、既に昼食の時間になっていた。一斉に昼休みの時間となるので、私は公文書に触れることもないまま、閲覧室を出るように言われてしまった。幸いにも中央檔案館は外から来た人も区別なく扱ってくれて、館内にある集団食堂で食事をとることができたし、食後は共同休憩室で休むことができた。しかも、休憩室には私1人しかいなかったので、昼休みは2時間以上にわたって続いたが、難なくやり過ごすことができた。
公文書の調査がいかに難しいかはよくわかっており、始めてすぐに収穫があるだろうとはもともと思っていなかった。それに、文書名と日付を正確に提出するためには、自分がよくわかっている資料であったり、さらには周辺的であったりする資料から見ていかなければならなかった。そのため、最初の2、3回の調査では、既に公開されているが、文言の調整や削除があるかもしれない文書だけを見た。これにより、文書名や日付が間違っているという理由で閲覧が拒否される事態を避けることができる。
私のやり方は、細く長く続けていくというものだった。私は編集作業も行う必要があったので、毎週檔案館に行くことができる時間は実はとても少なかった。1週間で多くて2日を割けるぐらいで、ときには1、2週間全く行く時間がないということもあった。それでも、半日でも時間があれば、バスや自転車に乗り、時間と労力をかけて、顔を出しに行った。このようなやり方には二つのメリットがある。第一には、行かない時間が長くなると、紹介状が再び必要になってしまうかもしれないが、それを避けることができる。そして第二に、職員たちに私の存在に慣れてもらうことができる。
こうして半年間やっているうちに、檔案館の若者たちと仲良くなっていった。彼らにも業績評価の圧力があり、私が『党史研究』の編集部にいると知っていたので、テーマ選びや論文の書き方への助言を私に期待していた。確かにこの方面では、私も多少のアドバイスをすることができた。
中央檔案館に保存されている文書の中には、職位の高い人しか閲覧できないものもあるが、通常の政策や業務についての文献資料は比較的開放されていた。カギとなるのは、正確な文献目録を提出できるかどうか、そして出納担当者が頑張って探そうとしてくれるかどうかである。檔案館の若者と知り合いになってからは、公文書を探すためのコツを少しずつつかむことができただけではなく、タイトルが完全には一致しない文献資料も探してもらえるよう職員を説得できるようになった。このようにして、探し出せる資料の範囲は格段に広がっていった。
しかし、中央檔案館で資料を見ることができたからと言って、必ず書き写した資料を持ち出せるというわけではない。資料調査の準備をしていたとき、このような助言をくれた先生がいた。カードを何枚か用意しておいて、もしも重要な資料を見つけたら、要点をそのカードにこっそりと写しておくのがいいというのだ。なぜならば、檔案館は閲覧者が書き写した資料をすべて一字一句審査して、「問題がある」とみなされた部分については、筆で濃く墨塗りにされてしまうという経験があったからだ。塗りつぶされた字句は、強い光に当てたとしても読み取ることができず、無駄骨になってしまうという。
私は中央檔案館に来てから、ずっと「秘密」と表記されたノートを使い、檔案館から提供された鉛筆で書き写していた。写し終わったら、監視員が見ている前で、指定された場所に置いた。だから、一度も持って帰ったことはなかったし、こっそりとカードに要点を書きとるということをする勇気もなかった。このようにして途切れ途切れながら1年以上かけて写し取り、1985年になりその問題の調査を終えなければならなくなってからようやく、ノートを持ち出すため、写し取ったものの審査をお願いした。果たして、結果は驚くべきものだった。ノートを開いてみると、大部分の内容は筆で塗りつぶされていて、残されたものはほんの少ししかなかったのだ。
その日、檔案館の建物から出たとき、ちょうど私のノートの審査を担当した某処長に会ったのだが、彼を捕まえて問い詰めてやりたいという衝動にかられたことをよく覚えている。