Commentary
香港の現代詩における「東京」というイメージ
周漢輝、鍾國強、黄碧雲、陳麗娟、葉英傑、梁秉鈞の作品から
拙稿「香港ポップスの歌詞が描き出す「東京」の表象」では、香港の作詞家がさまざまな「東京」をどのように描写し、それをつうじて「恋」をいかに物語っているかを紹介した。実は、「東京」と「恋」というパターンは香港の現代詩にも見られる。周漢輝の「神保町――東京散策、詩の五」(「神保町——東京散策,詩五」2018年)はこのように書いている。
この本は君の未着を静かに待っていた/書棚の中で何年も堪えていた/それは計算できるだろう、体内の/すべての文字を調節することで、思考し記憶する
(這本書默待你的未至/在書架上忍受多少年月/它該會數算,調度體內/所有字詞,去思考與記憶)
元の持ち主は映画を勉強し、作る/広告を。本業をやめる前に蔵書をすべて売った/違う? それは出版後長い間倉庫に埋もれていた/想像することさえできないだろう、君と彼女が
(舊主人修讀電影,拍攝/廣告,放棄本業前盡售藏書/不?它出版後長埋書倉/就不可能想像你與她是)
香港人、遠いところから東京を訪れたのか?/君は詩を読み詩を書く、彼女も楽しむ/詩の広義を――ラーメン味噌焼酎/浴衣JR電車温泉花火大会
(香港人,遠道來訪東京嗎?/你讀詩寫詩,她也同好於/詩的廣義——拉麵味噌燒酌/浴衣JR電車溫泉煙火大會)
「君」と「彼女」は東京に旅行に行った。詩人である「君」は神保町を訪れ、古本が彼の訪れを待ち望んでいるかのようなロマンチックな想像をしている。しかし、「彼女」はグルメや遊びにしか興味を持っていない。「矢口書店の映画脚本から/小津安二郎をなかなか見つけられないうちに/大島渚は君を見つけた」と、「君」は好きな監督と互いに尋(さが)し尋して覓(もと)め覓め合い、まるで恋をしているかのようだ。一方、「街の奥深くに迷い込み、君と彼女は/方向を見失い、喧嘩が始まるところだった」。古本とロマンチックな関係を想像するのとは逆に、「彼女」との関係はリアルすぎる。この作品は香港ポップスと同様に、「東京」をつうじて「恋」を物語っているが、古本とのロマンと、「彼女」との日常のモヤモヤの対比が面白かった。
ポップスは消費文化の一部として消費者の好みに合わせるため、その中で描かれる「東京」は作品の「デザイン」となり、描写が浅いことは一般的である。それに対し、香港の現代詩はマイナーなジャンルだが、市場の需要への迎合やメロディーの制約がなく、そこで描かれる「東京」はより立体的で思考を促すものになる。本稿では、周漢輝をはじめ、鍾國強、黄碧雲、陳麗娟、葉英傑、梁秉鈞の作品を論じてみたいと思う。
箱の中に箱が詰まっている場所で、蚕のように死ぬ
詩人・鍾國強は2001年に「東京印象」を発表した。新宿について彼はこのように描いている。
黒いコートの重さ/ネオンが歩いている/紙くずと眉を上げる/煙を吐く/ぬいぐるみを取る/階段がカタカナへ伸びている
(黑色大衣的重量/霓虹在走/揚起紙屑和眉角/吐一口煙/夾一個玩偶/樓梯伸向片假名)
警戒する目が開いた/曲がり角の人々とチラシ/カートゥーンのウサギ/豊満なラインを通す/マクドナルドの満腹感/尿に腐食された柱に/歩かない灯りがかかっている
(一只警目睜開/轉角的人流和傳單/卡通的兔/走過豐滿的線條/麥當勞的飽饜/尿餿的柱/懸一只不走的燈)
ネオン、タバコ、ゲームセンターなど、ごくありふれた新宿の風景だが、そこは冷たくストレスを感じる空間であり、多くの事象が同時に動いており、性的欲望もじわりとにじみ出る。その中で「尿に腐食された柱」と、そこにかかっている「歩かない灯り」はまるで別の空間に存在するかのように、静止している。繁華街の生命力は常に、このような不安、猥褻(わいせつ)、腐朽と共にある。
作家の黄碧雲が書いた散文詩「東京・愛の亡霊」(「東京・愛之亡靈」1997年)は、東京から感じた不穏をより明白に語っている。
この箱の中に箱が詰まっている場所で、私は蚕(かいこ)のように死んでいる。/電線は電線に繋がり、線路は線路と交差し、東京の空は、ばらばらで意味をなさない。/一棟の百貨店から別の棟へそしてまた別の棟へ、東西南北館が地下街に繋がる。私は流れる人混みの中で回る。箱の中の女の子のように回る、回る〔…〕
(在這盒子套着盒子的地方,我像蠶蟲一樣死亡。/電線連接着電線,路軌交叉着路軌,東京的天空,支離破碎,無從有意思。/一座百貨大樓到另一座再到另一座,東南西北館接地下街,我在流動的人群中轉轉轉。盒子舞孃一樣轉轉轉〔…〕)
百貨店の「箱」から「箱」へ、「私」は音楽箱の中の女の子のように閉じられたまま永遠に回り続ける。または繭(まゆ)に包まれたかのように死んでしまう。こうした都市の圧迫感は香港でも感じられる。詩人の陳麗娟は「亡星之城」(2007年)で香港について次のように書いている。「我々は管を通して、一棟また一棟の白いビルの間を這(は)っていくしかない/毎日オフィスのトイレに座り、味がしない卵を産む」。黄と陳は、アジアの大都会で暮らす「私」や「我々」を経済動物である蚕や鶏にたとえている。つまり、家畜のような存在である。
箱の中で私たちはコーヒーを飲む。箱の中で私たちはしゃがんでおしっこをする。箱の中で私たちは箱の中のアニメ・成人映画を見る。ガラス箱の中で私たちはパチンコをし、電車の中で私たちは互いの脇を嗅ぎ合う。目をそらし、ドアはしっかり閉まっている。/私の名前を尋ねないで。話しかけないで。近づかないで。
(在盒子裏我們喝一杯咖啡。在盒子裏我們蹲下來小便。在盒子裏我們看盒子裏的動畫/成人電影。在玻璃箱裏我們打彈珠,在電車車廂裏我們互相嗅對方的腋下。別過臉去,門關得緊緊的。/不要問我的名字。不要跟我說話。不要走近我。)
食事、排泄、性、賭博、娯楽。箱の中で「私たち」はそれらの行為をする。こうした箱の中の生存と生活は、生産のために行われることである。なぜなら、「私たち」はまた電車という箱に乗り、会社という箱で働かなければならないからだ。そして都市の中で人々は物理的に近づくほど、心理的には互いを拒絶したくなる。「髪を赤く染め、へそに穴を開けよ、東京の若者のように、男はスカート、女は黒い口紅。ただし、一二時半までに終電に乗ることを忘れるな、明日は八時半に出勤し、永遠に遅刻しない」。労働者はある程度の「自由」を楽しめるが、すべての行動は依然として厳しく管理されている社会の中の生産を目指している。