Commentary
中国共産党の支配下で強まった華北村落の紐帯
日本占領時代までは排他的な村民意識が希薄だった
「村の社会」という言葉を聞いたとき、閉鎖的・排他的な村社会、村八分、といったイメージを思い浮かべる人は多いだろう。
筆者の祖父母が暮らした山陰の村も、よくも悪くも「村社会」が根づいていた。例えば氏神様の秋祭りは集落全体でのイベントである。体調を崩して普段は娘夫婦の家で暮らしていた祖母も、当番の年が来ると家に帰り、集落全体のために郷土料理である押し寿司を作っていた。また祖父母宅前の道路は周辺地域と比べて整備され、自動車で走りやすかった。それは「集落で役所に請願をしたから」であり、「近隣の〇〇集落は請願に行かなかったから道が悪いまま」だと幼いころからよく聞かされた。
都会からの移住者を「ヨソから来た人たちは……」などと集落の皆で陰口を言うのも、我々のイメージする典型的な村社会の姿である。移住者はいつまでもヨソモノであり、すでに地域を離れて暮らしていた祖母はいつまでも「村人」であった。
1940年代の華北村落と日本的村社会の相違点
さて筆者は中国の「村の社会」について研究をしている。上で見たような村社会は、言うまでもなく極めて日本的なものである。では、中国における村社会とはどのようなものであろうか。
中国の村落、とりわけ華北地域の村落社会については、多くの研究や論争が行われてきた。その嚆矢(こうし)となるのが、1940年代に展開された「平野・戒能論争」である(三品、2007)。本論争は南満州鉄道(満鉄)調査部が日本占領下の華北村落で行った調査(のちに『中国農村慣行調査』として岩波書店から出版)を分析した平野義太郎と戒能通孝(かいのう みちたか)による論争であり、前者は華北村落の共同体的性格を主張し、後者はそれを否定した。
この論争を解決に導いたとされるのが旗田巍(はただ たかし)である(旗田、1973)。旗田は上述の華北村落調査に参加したメンバーであり、平野・戒能らと同じ資料を用いて華北村落の共同体的性格の有無について分析を行い、華北村落を共同体的性格の薄い散漫な社会と結論づけた。旗田が挙げた華北村落の特徴を、冒頭の日本的村社会との比較で見てみたい。
まず華北村落は多くの場合、排他的な村民意識を持たない。多くの村で「本村人」の条件が緩く、そのような村では移住してきたとたんに村人として扱われる。これは本村人としての特権の少なさの裏返しでもある。例えば落穂拾いや入会地の利用など、日本では村人に限定されるような行為が、華北村落では村人、ヨソモノを問わず広く許されていた。
また、一般的な華北村落では、村全体を包括する組織や活動が存在しない。通常、青苗会や村公会と呼ばれる組織は存在し、村の行政に当たる役割を担っていた。しかしこれはもともと「看青」、つまり共同で行う作物の見張りに基づく組織である。そのため、例えば耕作地がわずかであり、家族だけで見張りが足りるような者は参加せず、またそのような義務もない。
村祭りも同様で、参加の義務はない。対照的に、冒頭で挙げた筆者の祖父母宅では祭りに参加することが集落(これは氏子地域とも重なる)の住民の義務であり、それは家を離れていた祖母も例外ではない。また、筆者の育った地域は東京23区西部に位置するが、ここでも秋祭りの時期になると関係者が家々を回って費用を徴収していた。現在は単身世帯向けの集合住宅も増え、以前より徴収が難しいことも推測されるが、古くからの住民は基本的に義務として支払っている。
旧来の中国でも、村に廟などがある場合は、廟会と呼ばれる祭りのようなイベントが開かれていた。しかし参加は任意であり、相対的に裕福な者だけが費用を出せばよかった。通常、廟会では劇団などが呼ばれ、伝統劇が上演された。費用を出していない者には観劇の権利がないかというと、そうではない。費用を出していない者が観劇をしたり、廟会を堪能したりしても、村の中では何らとがめられることはない。
このほか、村の土地という概念が希薄なことも指摘されている。日本の場合、村の土地が村人以外の者に所有されないよう、村規約などが定められていた(坂根、2011)。他方、華北村落では村を越えた土地の売買が多く行われ、それを縛るような規定も存在しない。その結果、村民の持つ土地の中に他村の人の所有地が存在したり、土地の境界が入り乱れたりすることとなった。
加えて旧来の政権は、このような社会に対し不干渉的な立場を採ってきた。現在の中国の体制や、強い皇帝の権力というイメージからは意外に思われるかもしれないが、旧来の中国では、中央から派遣される官僚は県(日本の都道府県に相当する中国の行政区画は省であり、中国の県は日本の県と比べてはるかに小さい)までしかおらず、それより下は在地の有力者などをつうじた緩やかな統治が行われていた。基層社会まで十分に管理する余力のない前近代的な政権にとって、反乱が起きずに税がきちんと納められさえすれば、多少のことはどうでもよかったのである。
中国共産党の直接的な統治で村社会は変容していった
1949年に中国共産党(以下共産党)が主導する中華人民共和国が成立すると、このような状況は大きく変わった。統治体制についていえば、中国の歴史上初めて、中央の政権が全国規模で村レベルまで直接的に統治するようになる。その中で村の社会も変容していく。ここからは筆者の最近の研究に基づき、その変化の過程を明らかにしたい(河野、2023)。これは中華人民共和国史、とりわけのその初期の歴史を村の視点から再考する試みでもある。
共産党は国民党との内戦中から、自らの統治下に入った農村で土地改革政策を実施してきた。これは「地主」や「富農」など土地を多く持つ者からそれを取り上げ、「貧農」や「雇農」などの持たざる者に分配する政策である。そして土地改革は実質的に「村」を単位として行われた。そのため土地改革では、村の土地と村の人をめぐってさまざまな動きが見られた。
村の土地をめぐっては、それぞれの分配量を増やすため、村で団結して自らの土地を増やす動きが見られた。この時期には村として積極的に他村の地主から土地を回収するとともに、村民の土地が侵害された場合は村で団結して対抗した。
他方、村内では異なる動きも見られた。前述のように旧来の華北村落では排他的な村民意識が薄かった。村の中にごく普通にヨソモノが暮らしており、彼ら・彼女らはとくに差別や排斥を受けずにすごしていた。しかし村の範囲で限られた土地を分配することになると、パイの取り合いともいえる状況が発生した。その過程で村内のヨソモノの排除が進んだ。
この時期、すでに数世代にわたって村に住んできたような者も、改めてヨソモノとして発見され、排除された。すなわちこの時期の村では、外に対しては積極的に団結する一方、その内では新旧農民の対立(「新」もさほど新しいわけではない)が醸成されつつあった。
村という枠組みが強化され、土地は集団所有となった
その後、共産党は農業集団化政策を始める。この過程でも村の結びつきに変化が見られた。とくに1955年頃から組織された高級農業生産合作社は大規模な組織であり、一般的に数村から数十村の規模で組織された。作付け計画が現場を離れた規模で定められたこともあり、多くのところで減産や混乱を招いた。
その中で、いったん組織した高級農業生産合作社を解体して、村ごとに合作社にするよう求める声があがった。分社を求める合作社では、社内の村々で上からの買い付けノルマを減らして減産から村全体を守るため、村幹部が率先して生産量のごまかしなどを行った。これは同じ社内の他村から反発を招くと同時に、自らも「他村も同じことをやっているのでは」との疑いを抱くようになり、他村との対立に拍車をかけた。その結果、大規模合作社の維持が不可能となり、1957年頃までに多くの合作社が1村1社規模にまで解体された。総じて、村を超えた規模で合作社が組織されたことで、逆に村の結束は強化された。
中華人民共和国の歴史について考えるとき、社会主義改造や大躍進運動、文化大革命など、比較的目立つ政策や政治的キャンペーンに目が向きがちである。しかしこのように下からの目線で見ると、中華人民共和国初期という時期は紆余曲折がありながらも、旧来影が薄かった村という枠組み、言い換えるなら地縁が強化されていった過程と捉えることができる。
ここで強化された村という枠組みは、これまた紆余曲折の後、人民公社時期の生産大隊として引き継がれ、1980年代の人民公社解体後も村民委員会という形で維持されている。また、現在の中国の農村では土地は集団所有であり、華北地域では多くの場合、村が所有単位となり、村民にはこの枠組みの中で使用権が分配される。かくして現代中国の基礎を構成する村落社会ができあがっていったのである。
参考文献:
河野正『村と権力―中華人民共和国初期、華北農村の村落再編』晃洋書房、2023年
坂根嘉弘『〈家と村〉日本伝統社会と経済発展』農文協、2011年
旗田巍『中国村落と共同体理論』岩波書店、1973年
三品英憲「大塚久雄と近代中国農村研究」(小野塚知二・沼尻晃伸編『大塚久雄『共同体の基礎理論』を読み直す』日本経済評論社、2007年)