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Commentary

中国共産党の支配下で強まった華北村落の紐帯
日本占領時代までは排他的な村民意識が希薄だった

河野正
国士舘大学21世紀アジア学部講師
社会・文化
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中国の華北・山西省の村廟(2010年頃)。現在は他の用途に使われており、廟としての機能はない。(写真:筆者提供)
中国の華北・山西省の村廟(2010年頃)。現在は他の用途に使われており、廟としての機能はない。(写真:筆者提供)

 他方、村内では異なる動きも見られた。前述のように旧来の華北村落では排他的な村民意識が薄かった。村の中にごく普通にヨソモノが暮らしており、彼ら・彼女らはとくに差別や排斥を受けずにすごしていた。しかし村の範囲で限られた土地を分配することになると、パイの取り合いともいえる状況が発生した。その過程で村内のヨソモノの排除が進んだ。

 この時期、すでに数世代にわたって村に住んできたような者も、改めてヨソモノとして発見され、排除された。すなわちこの時期の村では、外に対しては積極的に団結する一方、その内では新旧農民の対立(「新」もさほど新しいわけではない)が醸成されつつあった。

村という枠組みが強化され、土地は集団所有となった

 その後、共産党は農業集団化政策を始める。この過程でも村の結びつきに変化が見られた。とくに1955年頃から組織された高級農業生産合作社は大規模な組織であり、一般的に数村から数十村の規模で組織された。作付け計画が現場を離れた規模で定められたこともあり、多くのところで減産や混乱を招いた。

 その中で、いったん組織した高級農業生産合作社を解体して、村ごとに合作社にするよう求める声があがった。分社を求める合作社では、社内の村々で上からの買い付けノルマを減らして減産から村全体を守るため、村幹部が率先して生産量のごまかしなどを行った。これは同じ社内の他村から反発を招くと同時に、自らも「他村も同じことをやっているのでは」との疑いを抱くようになり、他村との対立に拍車をかけた。その結果、大規模合作社の維持が不可能となり、1957年頃までに多くの合作社が1村1社規模にまで解体された。総じて、村を超えた規模で合作社が組織されたことで、逆に村の結束は強化された。

 中華人民共和国の歴史について考えるとき、社会主義改造や大躍進運動、文化大革命など、比較的目立つ政策や政治的キャンペーンに目が向きがちである。しかしこのように下からの目線で見ると、中華人民共和国初期という時期は紆余曲折がありながらも、旧来影が薄かった村という枠組み、言い換えるなら地縁が強化されていった過程と捉えることができる。

 ここで強化された村という枠組みは、これまた紆余曲折の後、人民公社時期の生産大隊として引き継がれ、1980年代の人民公社解体後も村民委員会という形で維持されている。また、現在の中国の農村では土地は集団所有であり、華北地域では多くの場合、村が所有単位となり、村民にはこの枠組みの中で使用権が分配される。かくして現代中国の基礎を構成する村落社会ができあがっていったのである。

参考文献:

河野正『村と権力―中華人民共和国初期、華北農村の村落再編』晃洋書房、2023年

坂根嘉弘『〈家と村〉日本伝統社会と経済発展』農文協、2011年

旗田巍『中国村落と共同体理論』岩波書店、1973年

三品英憲「大塚久雄と近代中国農村研究」(小野塚知二・沼尻晃伸編『大塚久雄『共同体の基礎理論』を読み直す』日本経済評論社、2007年)

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