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Commentary

中国共産党の支配下で強まった華北村落の紐帯
日本占領時代までは排他的な村民意識が希薄だった

河野正
国士舘大学21世紀アジア学部講師
社会・文化
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中国の華北・山西省の村廟(2010年頃)。現在は他の用途に使われており、廟としての機能はない。(写真:筆者提供)
中国の華北・山西省の村廟(2010年頃)。現在は他の用途に使われており、廟としての機能はない。(写真:筆者提供)

 村祭りも同様で、参加の義務はない。対照的に、冒頭で挙げた筆者の祖父母宅では祭りに参加することが集落(これは氏子地域とも重なる)の住民の義務であり、それは家を離れていた祖母も例外ではない。また、筆者の育った地域は東京23区西部に位置するが、ここでも秋祭りの時期になると関係者が家々を回って費用を徴収していた。現在は単身世帯向けの集合住宅も増え、以前より徴収が難しいことも推測されるが、古くからの住民は基本的に義務として支払っている。

 旧来の中国でも、村に廟などがある場合は、廟会と呼ばれる祭りのようなイベントが開かれていた。しかし参加は任意であり、相対的に裕福な者だけが費用を出せばよかった。通常、廟会では劇団などが呼ばれ、伝統劇が上演された。費用を出していない者には観劇の権利がないかというと、そうではない。費用を出していない者が観劇をしたり、廟会を堪能したりしても、村の中では何らとがめられることはない。

 このほか、村の土地という概念が希薄なことも指摘されている。日本の場合、村の土地が村人以外の者に所有されないよう、村規約などが定められていた(坂根、2011)。他方、華北村落では村を越えた土地の売買が多く行われ、それを縛るような規定も存在しない。その結果、村民の持つ土地の中に他村の人の所有地が存在したり、土地の境界が入り乱れたりすることとなった。

 加えて旧来の政権は、このような社会に対し不干渉的な立場を採ってきた。現在の中国の体制や、強い皇帝の権力というイメージからは意外に思われるかもしれないが、旧来の中国では、中央から派遣される官僚は県(日本の都道府県に相当する中国の行政区画は省であり、中国の県は日本の県と比べてはるかに小さい)までしかおらず、それより下は在地の有力者などをつうじた緩やかな統治が行われていた。基層社会まで十分に管理する余力のない前近代的な政権にとって、反乱が起きずに税がきちんと納められさえすれば、多少のことはどうでもよかったのである。

中国共産党の直接的な統治で村社会は変容していった

 1949年に中国共産党(以下共産党)が主導する中華人民共和国が成立すると、このような状況は大きく変わった。統治体制についていえば、中国の歴史上初めて、中央の政権が全国規模で村レベルまで直接的に統治するようになる。その中で村の社会も変容していく。ここからは筆者の最近の研究に基づき、その変化の過程を明らかにしたい(河野、2023)。これは中華人民共和国史、とりわけのその初期の歴史を村の視点から再考する試みでもある。

 共産党は国民党との内戦中から、自らの統治下に入った農村で土地改革政策を実施してきた。これは「地主」や「富農」など土地を多く持つ者からそれを取り上げ、「貧農」や「雇農」などの持たざる者に分配する政策である。そして土地改革は実質的に「村」を単位として行われた。そのため土地改革では、村の土地と村の人をめぐってさまざまな動きが見られた。

 村の土地をめぐっては、それぞれの分配量を増やすため、村で団結して自らの土地を増やす動きが見られた。この時期には村として積極的に他村の地主から土地を回収するとともに、村民の土地が侵害された場合は村で団結して対抗した。

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