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Commentary

著者に聞く⑮――海野典子さん
『イスラームが動かした中国史』(中央公論新社、2025年12月)

海野典子
大阪大学大学院人文学研究科講師
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「中国」の宗教や民族に関心のある方、特にこの分野の研究を志す学生は、まず、固定された枠組みを疑い、あらゆる境界を往来する視座を大切にしてほしいと著者は語る。写真は寧夏回族自治区銀川市で、モスクへの礼拝を前に頭や顔をそってもらっている回族の老人。2014年4月29日(共同通信社)
「中国」の宗教や民族に関心のある方、特にこの分野の研究を志す学生は、まず、固定された枠組みを疑い、あらゆる境界を往来する視座を大切にしてほしいと著者は語る。写真は寧夏回族自治区銀川市で、モスクへの礼拝を前に頭や顔をそってもらっている回族の老人。2014年4月29日(共同通信社)

中国学.comでは、現代中国および中国語圏の関連研究の中から、近年注目すべき著作を出版された著者にインタビューを行います。今回は中国・中央ユーラシア近現代史、イスラーム地域研究の専門家で、『イスラームが動かした中国史』の著者である海野典子さんにお話を伺いました。

問1 まず本書のテーマについて伺います。イスラーム(イスラム教)を取り上げるにしてもなぜ中国で、中国を取り上げるにしてもなぜイスラームなのでしょうか。

(海野)それは、イスラームの適応力と中国社会の多元性を同時にとらえ直し、中国ムスリムの歴史的経験を学ぶことによって、多文化共生の方法を考えることができるからです。

一般にイスラームと聞くと、多くの人は紛争やテロといったネガティブなニュースから、「融通の利かない暴力的な宗教」という先入観を抱きがちです。しかし、イスラームの教義にはさまざまな例外や法解釈の余地があるなど、実は柔軟な側面を持っています。だからこそこの宗教は、儒教道徳が重んじられる中国をはじめとして世界各地に広まり、現地の文化と折り合いをつけながら独自の発展を遂げることができました。その千数百年にわたる軌跡は、イスラームが異なる文明と対話し、その豊かさを吸収して進化する、懐(ふところ)の深い信仰体系であることを証明しています。

もちろん、このことは、イスラームが一方的に中国に同化したことを意味しません。もともと異質な要素であったイスラームが中国を変容させた経緯、すなわち「中国のイスラーム化」とも呼びうる現象にも目を向けるべきです。天文学、医学、軍事技術から食文化にいたるまで、外来ムスリム(イスラム教徒)がもたらした知見は長い歳月をかけて中国文化の血肉となり、社会をより重層的なものへと作り変えてきました。私たちはつい漢族を中心に「中国史」を語りがちですが、外来ムスリムの末裔(まつえい)を主体とする回族の存在は、中国が陸と海の道を通じてユーラシア全域と結ばれ、イスラーム世界の重要な一部であったという実態を鮮やかに伝えています。

これほど豊かな歴史的経緯があるにもかかわらず、中国のイスラームないしムスリムは、「中国化したイスラーム」「漢化したムスリム」という一言で片付けられてしまいがちです。しかし、こうした一面的な認識は、習近平政権が進める「宗教の中国化」政策を学術的な見地から無批判に追認しかねない危うさを孕(はら)んでいます。中国ムスリムの歩みは、イスラームが中華文明に飲み込まれた直線的な道のりではありません。相互的かつ多方向に展開された文化変容のダイナミズムにより、両文明が互いを高め合ってきた複雑な過程なのです。

将来、世界最大の信徒人口を持つと予想されるイスラームと、国際社会で存在感を増す中国。イスラームに関するステレオタイプを修正し、漢族中心の一元的な中国像を相対化することは、この両者に対して多角的に理解を深め、私たちの国際感覚を鋭敏に研ぎ澄ますことにつながります。また、清代後期(特に19世紀後半)の虐殺や文化大革命期(1966~1976年)の弾圧を乗り越え、非ムスリムからの差別に苦慮しながらも信仰とコミュニティを守ってきた中国ムスリムの歴史的経験には、移民との共生に揺れる現代日本が参照すべき、共存のための知恵が詰まっています。そうした問題意識から、中国のイスラームやそれを信仰してきた人びとに光を当て、その通史を書く必要があると考えました。

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