Commentary
著者に聞く⑫――高暁彦さん
『毛沢東時代の統治と民兵』(名古屋大学出版会、2025年10月)
中国学.comでは、現代中国および中国語圏の関連研究の中から、近年注目すべき著作を出版された著者にインタビューを行います。今回は中華人民共和国史研究の専門家で、『毛沢東時代の統治と民兵』の著者である高暁彦さんにお話を伺いました。
問1 本書では、毛沢東時代(ここでは1949~1967年ごろ)の権力行使の実態が、民兵を通して検討されています。まず民兵とは何であり、民兵に着目したのはなぜでしょうか。関連して、本書の主な課題を伺えるでしょうか。
(高)民兵は、中国共産党政権の管理下にある準軍事組織です。毛沢東時代においては、民兵は中国人民解放軍によって管理され、約三千万人というきわめて巨大な規模を有していました。私が本書で民兵に着目したのは、これまでの多くの先行研究において、毛沢東時代に民兵が、政権の急進的な政策を徹底的に実施させる役割を果たしてきたことが指摘されてきたからです。
毛沢東時代には、食糧統制制度をはじめ、農業合作化運動、さらには大躍進運動など、社会に大きな変化をもたらす政治運動が連続的に発動されていました。こうした共産党政権の強力な遂行力はいったいどこから生じたのか――この問題を民兵という切り口から再検討することが、本書の中心的な課題です。
問2 本書に先立つ研究として、中国共産党研究における「大衆動員」論に言及されています。これに対し、本書はどのような方法で、先ほどの課題の解決を目指したのでしょうか。
(高)1949年までの中国は、中央政権が社会の末端にまで自らの権力を浸透させることができず、要するに「弱い国家」であったというイメージが一般的です。しかし、1949年に共産党が政権を掌握した後、一般民衆の大部分を巻き込んだ政治運動が立て続けに発動され、中国は、短期間で「強い国家」へと変貌しました。それは、いったいなぜなのでしょうか。
この問題は、中国政治史の分野において、おそらく最も多く研究されてきたテーマの一つでしょう。そこでよく提示される説明は、共産党の末端組織がきわめて強力であったという見方です。すなわち、中国共産党の末端組織が中央の指令に従い、積極的に宣伝・説得・教育活動を行ったからこそ、政治運動が基層レベルで円滑に展開された、という説明です。民衆も、こうした党の活動を通じて、必ずしも主体的ではなかったにせよ、少なくとも抵抗することなく、政権の政治運動に参加したと説明されてきました。これが、本書で言う「大衆動員論」です。
また、末端幹部は上級機関からの指示に従いつつ、同時に末端社会の実態にも配慮し、トップダウンの政治的要請とボトムアップの社会的要請とを調整することで、基層統治の安定を実現していた、という説明もあります。
しかし、私は以上の説明に対して、いささかの違和感を覚えています。中華人民共和国成立以前の中国においては、徴税や徴兵、あるいは食糧徴収を契機として、大規模な民衆暴動が発生することは決して珍しいことではありませんでした。このように国家権力に対して積極的に抵抗してきた社会に対し、中国共産党の権力浸透が果たして順調に進み得たのか、という点が第一の疑問です。さらに、末端幹部が国家と社会の間でバッファーのような役割を果たしていたのであれば、大躍進のような惨禍が発生したはずはないのではないか、という疑問もありました。
こうした問題意識から、私は、農民の抵抗が存在したにもかかわらず、集団化をはじめとする急進的な社会主義政策が比較的円滑に進行していたという事実に注目しました。この点を踏まえると、政権が政策の徹底的な遂行に当たり、何らかの形で強制力を効率的に運用していたのではないか、という考えに至りました。この仮説を証明するために、本書では、檔案(とうあん)史料を用いて、政権が基層レベルにおいて統治をいかに展開していたのかを具体的に分析しました。民衆が末端党員の働きかけにより、党の政治運動に参加したとされる「大衆動員」の状況は、実態として果たして存在していたのか、また、政権の宣伝や説得が十分に機能していなかった場合に、どのような統治手段が用いられていたのか、といった点を実証的に検討しました。
問3 先ほど檔案史料の話が出ましたが、研究では、具体的にどのような史料を利用したのでしょうか。史料の特徴と、その史料を選んだ理由について教えていただけますか。
(高)史料については、主として末端の県レベルの檔案館に所蔵されている史料を用いました。省レベルの檔案館の史料は、未公開のものが多いことに加え、公開されているものの中にも、政策現場の実態を十分に反映している史料が少ないためです。これに対して、県レベルの檔案館の史料は現場に近く、しかも、その中には上級機関に報告されなかった文書も含まれているため、より実態を反映していると考えられます。
とはいえ、県レベルの檔案の中にもさまざまな種類があり、そこから得られる民兵に関する情報の量や質には差があります。県の党委員会に所属する幹部たちは昇進のインセンティブ(動機づけ)を持ち、政治運動の主要な責任主体でもあるため、彼らが作成した文書には、政策現場の暴力案件を反映するものが一部含まれていますが、その数は多くありません。また、民兵の管理機構である人民武装部の史料からは、民兵の人員構成や管理の実態について情報を得ることができるものの、民兵による暴力行為など、人民武装部にとって不都合な情報については、記録が網羅的ではなかったのです。
民兵の活動実態を比較的よく読み取ることができたのは、規律検査部門(当時は監察部門)が作成した調査文書です。実は、毛沢東時代には、民衆の陳情を契機として、規律検査機構によって取り締まられた民兵関連の暴力案件が非常に多く存在しました。これらの案件の調査と処理に関する史料を手がかりにすることで、政策現場における民兵の活動実態を相当程度まで復元することが可能です。
加えて、新たな試みとして裁判文書も利用しました。裁判文書には、公安警察が刑事事件や「反革命事件」を捜査する過程で作成された大量の文書が含まれています。そこには、逮捕された民兵の供述や、その周囲にいた人々の証言が記録されています。これらの史料を総合的に検討することで、民兵の活動が社会の中でいかなる意味を持っていたのかを読み取ることができます。
本書では、江蘇省と貴州省という対照的な二つの地域を事例として取り上げました。一つの地域に限定するのではなく、二つの地域に共通する統治上の現象を観察することで、得られた結論の一般性を高めることを意図した研究設計です。
江蘇省は、国民党政権が国民国家建設に最も力を注いだ地域の一つであり、交通条件にも恵まれ、国家権力が浸透しやすい地域であったと言えます。一方、貴州省は、1949年まで国民国家建設の試みがほぼすべて失敗に終わった地域でした。通常であれば、国家権力が浸透しやすい地域ほど党の影響力も末端に容易に及び、民衆は政権の統治により従順であると考えられがちです。私自身は当初、そのような構想のもとで研究を設計しました。しかし、実際に史料を読み込んでいくと、状況は必ずしもそうではないことが明らかになりました。党の影響力がいかに浸透していたとしても、その作用には限界があり、政策が過度に強引であれば、民衆の反発や暴動が生じていたのです。
江蘇省では、1953年冬以降、食糧統制制度に反発する形で民衆による暴動が続発していました。末端幹部が不満を抱く民衆に拉致され、村の広場で吊(つる)し上げられ、公開の場で批判を受ける事件が相次ぎました。貴州省においても1955年前後から、食糧問題を背景に、皇帝の降臨など終末論的な色彩を帯びた民衆暴動が連続的に発生していました。こうした危機的な状況の中で、両地域では民兵の出動が確認されました。民衆の不満が顕在化した地域には、秩序回復のために民兵が投入され、暴動が顕在化していない地域においても、民兵による武装巡回が行われ、武力の誇示を通じて社会秩序の維持が図られていました。さらに、武装した民兵が戸別訪問を行い、食糧供出を促す対応も両地域で等しく取られていました。
以上の分析から、本書では、統治に関わる客観的条件が異なる地域であっても、政権に従順でない民衆を民兵の暴力を用いて抑圧することが、共通の統治メカニズムとして機能していたとの結論に至りました。
問4 執筆に当たって、特に苦労したことは何でしょうか。また、それをどのように克服されたのでしょうか。
(高)まず、最初の難関は、新型コロナウイルスの感染拡大でした。私が博士課程に進学したのは2019年10月です。進学して研究構想を固め、指導教員からゴーサインを得て、いよいよ史料調査に着手しようとした矢先に、感染拡大が起こりました。その結果、史料調査の計画は大きく狂ってしまいました。史料調査を再開できるようになったのは、感染対策がある程度緩和された2021年からです。
また、史料調査の過程自体にはさまざまなトラブルや困難が伴いました。檔案館で門前払いを受けることも非常に多く、研究者を明らかに見下すような対応をされることもありました。しかし、さまざまな点で助言を与えてくれた檔案館員も多くいました。史料へのアクセスが全体として厳しくなっていますが、そうした親切な方々の助けを得ながら、何とか史料調査を完了することができました。もちろん、こうした史料へのアクセスが可能であったのも、私が中国籍であることによるところが大きいです。中国籍でない研究者との間に大きな格差が存在していることについては自覚しています。
問5 本書を通じ、民兵による過酷な暴力の実態も浮かび上がってきました。民兵は毛沢東の個人支配体制の確立に対し、どのような役割を果たしたと評価できるでしょうか。反対に、毛沢東は民兵をどのように認識していたのでしょうか。
(高)まず、毛沢東時代の大部分において、民兵は中国人民解放軍によって管理され、その指揮命令系統も解放軍の体系に組み込まれていました。この点から見ると、民兵の運用は、原理的には軍の最高指導者である毛沢東が独占していたと言えます。1950年代に急進的な農業集団化が実施される過程において、毛沢東が民兵に対し、「階級闘争の道具」として機能するよう指示していた事実があります。基層レベルにおいて、毛の意向を徹底的に実行した主体の一つが民兵でした。さらに、文化大革命初期において、毛が軍の指揮命令系統を通じて、紅衛兵の動きを抑制しようとする地方の党委員会の民兵出動要請を阻止した事例もありました。これらの点を踏まえると、民兵が毛の個人支配の一環として機能していたことは明らかであると言えます。
毛沢東が民兵に対して抱いていたイメージには、大きく分けて二つの側面があります。第一は、軍事的な側面です。すなわち、「人民戦争戦略」の担い手としての民兵という位置づけです。これは、1950年代にソ連の経験を参照しつつ進められた中国人民解放軍の現代化・正規化改革が十分に進展しなかったことや、米ソとの関係悪化という状況の中で生じたものでした。この点は、従来の研究において繰り返し強調されてきた側面です。
第二の側面は、国内統治に関わる側面です。すなわち、「階級闘争」の道具としての民兵という位置づけです。毛沢東は冷戦構造を背景に、社会のあらゆる摩擦をマルクス主義的枠組みのもとで「階級闘争」として把握していました。このような認識のもとでは、政策の失敗や行き詰まり、さらにはそれに起因する民衆の不満と暴動が「反革命勢力」による破壊行為とみなされ、強制力をもって対処すべき対象とされていました。そのため、基層レベルにおいて常に緊張状態を維持し、「反革命分子」を排除する仕組みが必要であると毛沢東は考えていたのです。
本来であれば、社会に緊張感を与える役割を担うのは公安警察であると毛沢東は考えており、実際に1955年には、中央公安部を中心に全国で約200万人の「反革命分子」と「刑事犯罪分子」を今後三年間で検挙する計画も立てられていました。しかし当時、社会主義陣営ではすでにスターリンが死去しており、警察権力を無制限に行使する路線から、法制度の再建や健全化を重視する方向へと転換が進んでいました。その結果、中国においても警察権力を前面に押し出すことは、社会主義陣営内部の文脈において都合が悪くなっていました。
こうした背景で民兵は、形式上は民衆が自発的に組織した武装組織であるという建前を有していたため、政権にとって都合のよい暴力装置でした。民兵が暴力を行使した場合であっても、それを「民衆が自ら立ち上がって階級闘争を展開した結果」であると解釈する余地があったからです。
ただし、注意しなければならないのは、現場における「階級闘争」の実態が、毛沢東の意向や認識との間にかなりのずれを有していた点です。党中央の視点から見れば、民兵の行動は「階級闘争」として理解されていましたが、社会の側から見ると、その行動は宗族や集落といった社会的要因に強く規定され、旧来の宗族・集落間抗争の延長線上に位置づけられるものでした。
中華人民共和国成立以前の中国社会では、およそ一世紀にわたった戦争と混乱の影響で、民衆が自ら武装して自衛を図り、さまざまな社会的摩擦を武力で解決する慣行が形成されていました。こうした歴史的な背景の中で形成された民間武装団体の多くは、建国初期に民兵制度へと取り込まれました。その結果、宗族や集落の意向を汲(く)み取って活動する民兵は、社会主義建設が始まった後も存続し、さらに、政治運動に便乗して、旧来の「匪賊(ひぞく)」のように民衆に金品を強要する民兵隊も、当時は決して珍しい存在ではありませんでした。
毛沢東が民兵に期待していた「階級闘争」は、宗族や集落間の抗争、あるいは略奪行為といった在地的な要素を内包した形で展開されていたとも言えます。
問6 現在の中国では、民兵組織と呼べる組織は残っているのでしょうか。また現在の中国の統治のあり方、特に集団の暴力の管理から見て、当時の民兵が残した影響はどの辺りにあるとお考えでしょうか。
(高)民兵は現在も組織としては存続していますが、毛沢東時代と比べると、人員規模が大幅に減少しており、統治面で発揮してきた機能も大きく縮小しています。組織的な動員が行われるのは、災害対応や辺境地域でのパトロールなど、限られた場面にとどまっていると考えられます。毛沢東時代のように、政策の行き詰まりに直面した際、局面打開のために民兵が大規模かつ頻繁に動員されることは、現在ではきわめて少なくなっていると言えます。
民兵が統治の現場に直接登場する場面は減少したとはいえ、民間の暴力が統治の現場から完全に退場したことを意味するわけではありません。2000年代以降には、民間の警備会社やボランティア団体、さらにはヤクザなどの非公式な暴力集団が政権によって動員され、民衆の不満や暴動に対応していた事実が頻繁に確認されています。トロント大学のリネット・オン(Lynette Ong)教授の著作 Outsourcing Repression:Everyday State Power in Contemporary China(外注される鎮圧:日常的な国家権力と現代中国) では、こうした事例が数多く取り上げられ、体系的に分析されています。Ong先生の研究を踏まえると、民間の暴力を統治に用いるという、毛沢東時代の統治手法が、形を変えつつも現在にまで一定程度継続していると見ることも可能でしょう。
ただし、このような強引な統治手法が、近年において党中央から問題視されていることも事実です。地方幹部が非公式な暴力集団を動員して民衆の不満に対処する統治手法は、結果として地方幹部の権力を肥大化させる危険性を伴います。これは、2010年代以降、政権が一貫して回避しようとしてきた事態でもあります。実際、いわゆる「黒社会(ヤクザ)」と呼ばれる犯罪集団が2010年代以降に集中的に取り締まられていることからも、党中央がこうした問題を強く意識し、是正を図ろうとしていることがうかがえます。
問7 最後に、この記事をご覧の方に、特にこれから中華人民共和国の歴史を研究したいと考えている学生さん(大学生、大学院生)にメッセージをお願いします。
(高)歴史研究はとても楽しいということを伝えたいです。歴史とは一過性の出来事であり、過ぎ去った出来事そのものは永遠に失われてしまいます。しかし、史料という媒介を通じて、私たちは過去を知ることができます。そして、その史料を手に取ったあなただけが、その過去を掘り起こすことになるのです。それは、とてもわくわくする経験ではないでしょうか。 中華人民共和国に関する歴史研究には、いまだ十分に掘り起こされていないテーマが数多くあります。ぜひ、歴史研究の世界に足を踏み入れ、新たな発見に挑戦していただければと思います。
高さん、ありがとうございました。この記事をご覧になって、毛沢東時代の中国に興味を持たれた方は、ぜひ『毛沢東時代の統治と民兵』を手に取ってみてください。
