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Commentary

著者に聞く⑫――高暁彦さん
『毛沢東時代の統治と民兵』(名古屋大学出版会、2025年10月)

高暁彦
東北大学大学院法学研究科助教
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毛沢東が民兵に期待していた「階級闘争」は、宗族や集落間の抗争、あるいは略奪行為といった在地的な要素を内包した形で展開されていたとも言えよう。写真は、社会主義農村として知られる河南省・南街村の広場に建つ真っ白な毛沢東像と、その傍らで歩哨に立つ民兵。2006年8月30日(共同通信社)
毛沢東が民兵に期待していた「階級闘争」は、宗族や集落間の抗争、あるいは略奪行為といった在地的な要素を内包した形で展開されていたとも言えよう。写真は、社会主義農村として知られる河南省・南街村の広場に建つ真っ白な毛沢東像と、その傍らで歩哨に立つ民兵。2006年8月30日(共同通信社)

毛沢東が民兵に対して抱いていたイメージには、大きく分けて二つの側面があります。第一は、軍事的な側面です。すなわち、「人民戦争戦略」の担い手としての民兵という位置づけです。これは、1950年代にソ連の経験を参照しつつ進められた中国人民解放軍の現代化・正規化改革が十分に進展しなかったことや、米ソとの関係悪化という状況の中で生じたものでした。この点は、従来の研究において繰り返し強調されてきた側面です。

第二の側面は、国内統治に関わる側面です。すなわち、「階級闘争」の道具としての民兵という位置づけです。毛沢東は冷戦構造を背景に、社会のあらゆる摩擦をマルクス主義的枠組みのもとで「階級闘争」として把握していました。このような認識のもとでは、政策の失敗や行き詰まり、さらにはそれに起因する民衆の不満と暴動が「反革命勢力」による破壊行為とみなされ、強制力をもって対処すべき対象とされていました。そのため、基層レベルにおいて常に緊張状態を維持し、「反革命分子」を排除する仕組みが必要であると毛沢東は考えていたのです。

本来であれば、社会に緊張感を与える役割を担うのは公安警察であると毛沢東は考えており、実際に1955年には、中央公安部を中心に全国で約200万人の「反革命分子」と「刑事犯罪分子」を今後三年間で検挙する計画も立てられていました。しかし当時、社会主義陣営ではすでにスターリンが死去しており、警察権力を無制限に行使する路線から、法制度の再建や健全化を重視する方向へと転換が進んでいました。その結果、中国においても警察権力を前面に押し出すことは、社会主義陣営内部の文脈において都合が悪くなっていました。

こうした背景で民兵は、形式上は民衆が自発的に組織した武装組織であるという建前を有していたため、政権にとって都合のよい暴力装置でした。民兵が暴力を行使した場合であっても、それを「民衆が自ら立ち上がって階級闘争を展開した結果」であると解釈する余地があったからです。

ただし、注意しなければならないのは、現場における「階級闘争」の実態が、毛沢東の意向や認識との間にかなりのずれを有していた点です。党中央の視点から見れば、民兵の行動は「階級闘争」として理解されていましたが、社会の側から見ると、その行動は宗族や集落といった社会的要因に強く規定され、旧来の宗族・集落間抗争の延長線上に位置づけられるものでした。

中華人民共和国成立以前の中国社会では、およそ一世紀にわたった戦争と混乱の影響で、民衆が自ら武装して自衛を図り、さまざまな社会的摩擦を武力で解決する慣行が形成されていました。こうした歴史的な背景の中で形成された民間武装団体の多くは、建国初期に民兵制度へと取り込まれました。その結果、宗族や集落の意向を汲(く)み取って活動する民兵は、社会主義建設が始まった後も存続し、さらに、政治運動に便乗して、旧来の「匪賊(ひぞく)」のように民衆に金品を強要する民兵隊も、当時は決して珍しい存在ではありませんでした。

毛沢東が民兵に期待していた「階級闘争」は、宗族や集落間の抗争、あるいは略奪行為といった在地的な要素を内包した形で展開されていたとも言えます。

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