Commentary
中国の不動産バブルで犠牲になった農民の悲哀
社会的弱者の声を聞く「問題指向的研究」のススメ①
私が中国と関わるようになって30年以上が経った。この間、中国は急速に経済成長を遂げて大きく変貌したが、依然、変わっていないところも相当ある。
毛沢東時代が終わり、人民公社が解体され、農民は国に一定数量の農作物を売却すれば、それ以外の余った農作物を自由に扱えるようになった。その後、農業税も廃止され、現在農民はまったく自由に農業を営むことができる。出稼ぎ労働者として都市で働く農民も増えていった。しかし、農村(農業用地)と都市(非農業用地)、農民と市民を区分する戸籍制度は一部地域で改革が進められてはいるものの、今に至るまで全国レベルでの抜本的な見直しはなされていない。
農地も家もなく、社会保障も受けられない「農民工」
中国は社会主義を堅持しており、土地の公有制を崩していない。都市部では土地の所有権は国が持つものの、使用権は市場で流通し、地権者はそれらを自由に売買できる。使用権とは有期(住宅地は70年など)で契約する日本の定期借地権のようなもので、契約更新によって継続できる。つまり、都市部の土地・不動産は使用権を自由に取引できるという意味で実質的に私有化している。
一方、農村部は村などの集団(中国語では「集体」という)が土地を所有しており、農民は土地経営請負権を持つが、それを自由に売却したり、抵当に入れたりはできず、農地の転用も厳しく規制されている。
このような土地の管理方法によって、中国は食糧生産を安定的に行い、一定の自給率を確保している。農民工(戸籍上は農民のままの出稼ぎ労働者)は失業しても都市で路頭に迷うことがなく、何かあれば農村の家に戻り、農村に残してきた田畑を耕して生活を立て直せばいいという見方が、現在も中国の研究者の間に根強く存在する。
しかし、厳しく管理されているはずの農村の土地は、次々に都市開発に利用されていった。今や、農村に農地も家も残していない農民工が少なくない。さらに、中国の社会保障制度は地域によって内容が異なり、医療保険、失業手当、そして生活保護も、財政力の豊かな都市と貧しい農村部とではあまりにも大きな差がある。農村から戸籍を移さないまま(移せないまま)、長らく都市で生活する農民でも工人(工場労働者)でもない、自営業者や企業勤務の者もいるが、それでも、居住している都市の水準の社会保障を受けることはできないのだ。
昨今、中国の不動産企業の経営難が大きなニュースになっている。テレビから流れる、建設途中のマンションが放置されたゴーストタウンの映像を見て、私は2013年に訪問した友人の故郷、山東省金郷県羊山鎮を思い出した。
そこでは当時、明代から続く古い家屋を含む約640軒の家屋が取り壊され、15ヘクタールもの収用された土地に「国際軍事観光レジャー地区」(以下、レジャー地区)が建設された。「レジャー地区」の周辺では、古い町並みを再現する計画が進められていたが、実際にできたのは「古く見える」低層のマンション群。江蘇省や浙江省の不動産業者が開発したものだが、なかなか買い手がつかず、空室のまま放置されていた。
農村の土地は地方政府にとって「打ち出の小槌」
先述のとおり、農村の土地は集団所有であり、農民は土地経営請負権を自らの意思で売却したり、抵当に入れたりはできず、農地の転用も厳しく規制されている。ただし、「公共の目的」があれば政府が収用し、集団所有から国有にする手続きを取ったうえで、非農業用地として開発できる。また、企業や個人が収用された土地の権利を取得する場合、土地使用権譲渡金や各種税金を地方政府に支払うことになっている。
要するに、農村の土地は地方政府にとって、財政を支える打ち出の小槌だった。中央と地方の税源配分を明確化した「分税制」の施行(1994年)に従って、これらが地方財政に組み入れられると、地方政府は大量の農業用地を非農業用地に転用した。「土地財政」といわれるように、こうした土地・不動産関連収入が地方財政を支えてきた。そのうえ、「公共の目的」が法律で明確に規定されていないため、多くの地域で乱開発が進んでしまった。
中国政府が推奨する「紅色旅遊(赤色観光)」(共産党政権による建国の歴史を振り返る観光ツアー)の波に乗っかろうとしていたのか、羊山鎮の関係機関が突然電気や水を止め、強面の男たちを派遣し、農民を強制的に立ち退かせてできた「レジャー地区」は、無駄に広い道路や展示物の多くがレプリカという博物館、廃車になった戦車などを並べた屋外展示場だった。
現地の人たちは「農地には1畝(約6.67アール)あたり年間1400元のレンタル料が、宅地には1平方メートルあたり数百元の補償金が支払われたのみで、政府が用意した辺鄙な場所にある移住先のアパートの購入費用にさえ満たなかった」と話していた。私が訪れたのは労働節の連休中だったが、「レジャー地区」の全域を車で回ってすれ違った観光客は20人程度だった。
2013年当時、私は通りがかった羊山鎮の党委員会書記にも話を聞いている。彼は「清明節(先祖の墓参りをする祭日)に2012年は30万人、2013年には22万人が訪れましたよ。出店1軒のミネラルウォーターの売り上げが1日平均で1万5000元にも上りました!」と得意げに話した。
しかし、これに対して私の友人は、「22万人なんてウソだ。2012年の労働節の時期にも来たけど、人はまばら。清明節の時は烈士(国のために戦い犠牲になった人)の墓参りとして、小中学生を動員したのです」と呆れ顔だった。「レジャー地区」内には烈士陵墓があり、鎮政府は中央政府から毎年補助金をもらって拡張していた。
消されてしまった「乱開発を批判する声」
関連の情報はないかと、日本に帰ってすぐにインターネットで検索すると、以下のような文章が多数投稿されていた。
例えば「山東金郷羊山鎮:狂建“国際軍事旅遊度假区”為什么?」(なぜ山東省金郷県羊山鎮は“国際軍事観光レジャー区”を乱開発するのか?)と題する、「蒋公的博客」(蒋公)のブログ(2010年7月30日)だ。筆者は2013年5月に検索したが、その一部の内容を日本語でまとめた。
近年、農民は土地を失っている。コストが上がり、農業経営が難しくなる中、出稼ぎに行く者が増え、中小学生の退学率も高い。鎮政府は国際軍事観光レジャー地区をつくろうとしているが、こんな辺鄙な農村が国際観光なんて大きな話になるのか。ここは小さくとも美しく古い町だった。古くから残る廟(びょう)や祠(ほこら)、果樹園や森林も破壊されたというのに、風光明媚といえるのか。どれほどの観光客が訪れるというのか。広範囲の農地を収用し、人口の湖や遊園地をつくった。このあたりはもともと降水量が少なく、地下水も枯渇し、たびたび干害が発生する。湖を掘れば、砂漠化が進み、自然災害が起こる。地質公園をつくるというが、名所旧跡でもなく、石灰採掘場に残った池や低い岸壁の周りに見栄えの悪い偽物の楼閣や桟道をつくるだけじゃないか(注:羊山の人たちは昔、石灰岩を採掘して生計を立てていた)。
鎮政府は烈士陵墓を拡張するという。羊山は国民党軍と激しく戦闘し、多くの死傷者を出した。しかし、この戦闘が行われたのは短い期間で、羊山は長期間革命根拠地として存在したわけではなく、それ相応の革命に関する文物もない。使わなくなった人民解放軍の大砲、タンカー、戦闘機を買い取って展示しているが、羊山での国民党との戦いとどう関係があるというのか。外国や中国の他の地域から、わざわざ誰がこのようなものを見に来るのか。荒野に建設するならまだしも、盲目的に功績をあげるために、地方政府が土地を収用し、湖を掘り、伝統的な町並みを破壊して平地にしたのだ。
羊山鎮の役人と企業が結託して開発を行い、農民の土地や住居を奪うという劣悪な強盗行為を働いた。鎮政府は権力を用いて立ち退きを要求し、市場の価値を考えることもなく自ら査定した企業を選び、立ち退きの補償金を勝手に確定し、水や電気を止めた。警察を動員し、(注:立ち退きを拒む者に対し)すでに処分が終わったはずの計画出産の違反を問いただしたり、前科のある者を再び派出所に呼び出したりした。商いをする者は税務部門に厳しく調べられ、処分された。飲食業関係者は衛生防疫部門に調べられた。村人たちは屈辱に耐え、不平等な条件をのまざるをえなかった。数千人がすみかを失い、子どもが退学し、老人は気を病んで入院した。悲しみに暮れて服毒自殺した老人もいる。立ち退きの現場では、携帯電話を壊された。救急車が停まっているのに、気絶した人は救助されなかった。私たちは上級部門とメディアに訴えたが、ことごとく介入され、唯一取材を実現させた山東テレビ局の番組『新聞女生組』は、放映日に全県が停電にされたため、見ることができなかった。
しかし現在では、上記のブログを含め、検索しても多くの文章が削除されてしまっている。「羊山鎮+国際軍事+旅遊度假区(観光レジャー地区)」といったキーワードで検索しても、出てくる文章は観光地のアピールや宣伝ばかりだ。
だが、今もかろうじて削除されていない文章があった。冒頭に、その一部を写真で掲載した「群衆来信:金郷羊山鎮要建国際軍事旅遊度假区実在荒唐_劉景涛_新浪博客」『企業資訊策画団隊』(2010年1月24日)。
ここには、平屋に住んでいた農民を強制的に立ち退かせて開発業者が建設するマンションへの移転させるため、1平米あたり家屋は約400元、庭は100元という補償金が支払われていると書かれている。
本稿を第1回目として、社会的弱者の視点から中国社会を垣間見るシリーズを書き継いでいく。本シリーズには「問題指向的研究のススメ」と副題をつけた。「問題指向的研究」は、社会の問題や現象の説明だけに終始するのではなく、歴史的経緯、政治・経済的コンテクストの中で社会を理解し、社会変革の意識の下に行う研究である。そのためには、研究者も社会のアクターとして変化の中にいることを認識しながら、自らの立ち位置を明示的に捉える必要がある。
羊山鎮の事例を見てもわかるように、権力やカネの力で抑圧されている社会的弱者の声をすくい上げるのは容易ではない。中国をめぐる国際情勢が緊張しつつある昨今、そして、学者もソーシャルメディアで発信するようになったデジタル環境を考えれば、中国研究のあり方も変化を踏まえながら調整する必要がある。研究者個々人、そして専門領域によっても問題分析のアプローチは異なるが、私自身は、学者は「中立性」を唱えるのではなく、自らの置かれた環境に特定のコンテクストが関わっていることを鋭く自覚しなければならないと考えている。そうしたコンテクストに無自覚である、あるいは自覚していても触れずして表面的な分析を行い続ければ、現実から乖離した学者の押し付けの理論化が広く浸透してしまう。
「問題指向的研究」において私は、私たち学者が率先してさまざまなイシューを論争的に捉え、自らのポジションを批判的に見る必要があると強調したい。また、国家やさまざまな勢力の間に緊張関係があり、激しく社会が変動する中で、権力(パワー)を分析し、それと適度な距離を保つことで学問の独立性・批判性を確保し、信頼を高めなければならないと考えている。また、女性やマイノリティの視点も重視していきたいと考えている。