トップ 政治 国際関係 経済 社会・文化 連載

Commentary

著者に聞く⑨――島田大輔さん
『中国専門記者の日中関係史』(法政大学出版局、2025年3月)

島田大輔
公益財団法人東洋文庫奨励研究員
連載
印刷する
中国専門記者は、陸軍、外務省、実業界の中国通と並んで、戦前期日本の中国情報の供給源として非常に大きな位置を占めていた。写真は記者団と会見する汪兆銘(精衛)。太田はこの時期、汪兆銘政権で江蘇省経済顧問を務めていた。1943年11月7日(共同通信社)
中国専門記者は、陸軍、外務省、実業界の中国通と並んで、戦前期日本の中国情報の供給源として非常に大きな位置を占めていた。写真は記者団と会見する汪兆銘(精衛)。太田はこの時期、汪兆銘政権で江蘇省経済顧問を務めていた。1943年11月7日(共同通信社)

太田の史料として、『横浜開港資料館紀要』に2002年から10年にかけて連載されていた、「太田宇之助日記」1940~45年分(望月雅士翻刻)、太田自身の回顧録である太田宇之助『生涯――一新聞人の歩んだ道』行政問題研究所出版局、1981年があり、特に参考になりました。後者は、国立国会図書館にも所蔵がない貴重書です。古書でもほとんど出品されることがありません。太田と私の母校である早稲田大学の図書館には、私の方から寄贈をさせていただきましたが、全国の大学図書館などでも6箇所しか所蔵しておりません。ですが、太田自身の回想録ということで大変参考になりました。後年に書かれた回顧録(二次史料)なので、その記述の信憑性は当然問題になるのですが、太田が戦前期・戦後期に執筆・発表していた新聞記事・雑誌評論や、前述の日記などと突き合わせて慎重に内容を精査した結果、回顧録の記述は信用できるという結論に達しました。

太田の書いた様々なものを読んでいると感じるのですが、彼は非常に正直で真面目な人なんです。だから損することも非常に多いのですが、そうした人柄も回顧録を読むと分かります。拙著と合わせて読んでいただきたいと考えています。これが入手困難というのは残念ですので、どこかの出版社が復刊してくれるといいのですが、太田の知名度の問題で難しいのではないかと考えています。国会図書館にも所蔵されていないので、今後「国立国会図書館デジタルコレクション」に入る可能性もありませんし、太田が1986年まで長生きしていたので、著作権が切れるまでかなり時間が掛かります。

問4 ご研究により、太田の中国認識が、中国と日本をめぐる情勢の変化によって変質していったことも明らかになってきました。その特色と限界について、どのようにお考えでしょうか。

(島田)太田の中国認識は、確かに情勢の変化に応じて変化しています。1920年代には、孫文の唱える中央集権・武力統一に異議を唱え、中国の統一方法として聯省自治論(各省が憲法を制定して独立し、それを単位に聯省政府を作るという、一種の連邦制論)を主張しています。1920年代末の国民革命の躍進とともに、中国国民党の統一事業を応援するようになり、日中全面戦争の開戦(1937年)まで続きました。

しかし、日中戦争の長期化の中で、日本との和平の道を模索する汪兆銘(精衛)政権に期待するようになり、日本陸軍・汪兆銘政権に協力しました。ただし、これは、中国国民党・三民主義を主体とする汪政権を自主独立の政権として強化することで、重慶の蔣介石政権との争点をなくし、全面和平を成し遂げるという目的でなされた方針転換でした。戦後は、国共内戦に伴う中国国民党勢力の敗退と中華人民共和国の成立(1949年)によって、太田は中国情勢に対して定見を失いました。両岸関係に関して中立的な分析に終始し、かつ、論壇からも執筆依頼がなくなり、生きながら忘却されていくことになります。

太田宇之助が目にした中国は常に分裂した中国でした。太田が記者生活を始めた1917年の北京政府と広東政府の南北政府分立に始まり戦後に至るまで、中国国内の政治対立や日本の策動などで、常に何らかの地方政権、あるいは反中央武装勢力が存在し、また、中国が単一国家として完全に統一された時期はほとんどないと言っていいでしょう。しかし、太田はそのような状況において、常に中国統一の重要性と必要性を説きました。そして、太田は日中の平等互恵関係樹立に心を砕き、日中戦争にあたっても、理想を掲げて現地に飛び込み、日中全面和平を達成しようと奔走した人物でした。

1 2 3 4

Copyright© Institute of Social Science, The University of Tokyo. All rights reserved.